第7話 信用取引に手を出しそうになった、あの夜

夜の部屋は、やけに静かだった。

家族はもう寝ていて、テレビも消して、机の上にはコーヒーだけが残っている。


スマホの画面を何度もスクロールしながら、私は思っていた。


もしかして、私、少しだけ分かってきたんじゃないか。


チャートの形。

出来高の増え方。

SNSで流れてくる「次はここが来る」という言葉。


最初は何も分からなかったはずなのに、

最近は「なんとなく読める」気がしていた。


あのマイナス4万円も、

「勉強代だ」と言い聞かせて、

自分なりに納得していた。


そして、その夜。

何気なく証券アプリのメニューを開いたとき、

そこにあった文字が、やけに目に留まった。


…信用取引。


「少ない資金でも、大きな取引ができます」

そんな説明文が、やけに魅力的に見えた。


(…もし、これを使えば)


頭の中で、計算が始まる。

同じ値動きでも、

買える株数は倍になる。

利益も、倍になる。


「ちゃんと見てるし、もう大丈夫だろ」

「今までとは違う。感覚は掴んでる」


そんな言葉が、自分の中から湧いてきた。


怖くなかったわけじゃない。

むしろ、少し怖かった。

でも、その怖さよりも、


「ここで踏み出したら、

 本当に投資をしている人間になれるんじゃないか」


そんな思いの方が、少しだけ勝っていた。


…これが、成長ってやつなのかもしれない。


指が、画面の上で止まる。

申込ボタンまで、あと一タップ。


その瞬間、

ふと、あのときの光景がよみがえった。


コンビニの前で、

+18%の数字を見て、

なぜか泣きそうになった、あの日。


あれは、

「儲かった」からじゃなかった。


「自分の見ていた景色が、間違っていなかった」

そう感じられたことが、嬉しかっただけだった。


……じゃあ、今の私は、何をしようとしている?


「もっと稼ぎたい」

「早く結果を出したい」

「人より前に行きたい」


気づいたとき、

胸の奥に、別の感情があった。


…怖い。


お金が減る怖さじゃない。

間違えたとき、

「やっぱり自分はダメだった」と、

自分自身を否定してしまいそうな怖さだった。


私は、まだ、

自分の見方を信じきれていない。


それなのに、

その不安を、

レバレッジで上書きしようとしている。


画面を閉じた。


申込ボタンは、押さなかった。


その夜、コーヒーを飲みながら、

私は静かに思った。


…私は、まだこの扉を開く段階じゃない。


信用取引は、

自信がある人のためのものじゃない。

覚悟がある人のためのものだ。


私はまだ、

「勝ちたい自分」と

「自分を信じきれない自分」の、

ちょうど真ん中に立っている。


無理に背伸びをすれば、

きっと、どこかで足を踏み外す。


この夜、私は、

やらなかったという選択をした。


たぶんそれは、

臆病だったからでも、

慎重だったからでもなくて。


…まだ、自分のやり方が、見えていなかったから。


そして私は、知らなかった。

この夜を越えた先で、

「本当に痛い朝」が、

すぐそこまで来ていることを。


次回、

第8話|あの朝、私は強制決済を知った

欲と恐怖の、その先で。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コーヒー飲んでたら投資家になってた件 fujisoba @fujisoba0305

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ