第2話聖都の影、禁忌の薔薇

風雪が【永劫の聖都】アレクサンドリアの巨壁に遮られた時、俺の肩にある断刀からは、ようやく完全に氷霜が消え去っていた。




 厚重な城門は暗金色の合金で鋳造され、複雑な神紋が刻まれている。銀甲を纏った二人の守衛が長槍を手に立ち、その甲冑の紋章が薄明かりの中で冷たく光る。それは【オーレリアン連邦】と聖都教会が共有する标识であり、この地における「神権と王権の共生」の象徴だった。




 俺はフードを脱ぎ、血の気のない蒼白な顔を晒した。瞳の奥の氷焔ひえんを、二点の微光へと収束させる。隣ではエルフの少女が俺の背後に身を隠し、赤く凍えた尖った耳を震わせていた。人間の孤児は彼女の衣の裾をきつく握りしめ、額の傷跡はまだ癒えていない。




「止まれ。荒野からか? 入城文書はあるか」




 守衛の視線が、俺の錆びついた重甲と背中に透ける蓮の刺青をなぞり、不快げに眉をひそめた。俺は何も言わず、懐から擦り切れた銅の記章を取り出した。八年前、屍の山で老兵から譲り受けたものだ。守衛はそれを忌々しそうに受け取り、震える子供たちを蔑むように一瞥すると、手を振った。




「入れ。外区ガイクにいろよ。中層へは近づくな、さもなくば流民として叩き出す」




 門をくぐった瞬間、劣悪な麦酒と腐敗した食物、そして煙の入り混じった悪臭が鼻を突いた。これが聖都の外区だ。荒野の虚無とは違い、ここには低い土屋根が密集し、屋根を覆う腐った茅葺きの隙間から寒風が吹き込み、絶え間ない咳と子供の泣き声が漏れ聞こえてくる。壁際に蹲る窮民たちは、路上の残飯を漁るか、空から落ちる雪の欠片を麻木した瞳で見上げている。そこには希望などなく、ただ絶望に磨り潰された虚無だけがあった。




「おじちゃん、ここが……聖都なの?」




 人間の少年の声には、隠しきれない失望が混じっていた。「人類の希望」と謳われる場所が、荒野よりもマシな場所だと思っていたのだろう。




 その隣で、エルフの少女も顔を上げた。十歳ほどの彼女は、衣こそボロボロで顔色も悪いが、エルフ族特有の精緻な美しさを隠しきれていなかった。長くカールした睫毛、小さく通った鼻筋、そして柔らかく鮮明な唇のライン。数年もすれば、傾国の美女となるだろう。彼女の視線は俺に向けられ、そこには深い依存と、言いようのない羞恥が混じっていた。荒野でのあの生死を共にした守護が、この子の心に特別な情念を芽生えさせたのかもしれない。




 俺は答えず、断刀を強く握り直した。  外区の至る所にある「収容所」と書かれた看板。灰色の法衣を纏った男たちの目は、流民の子供たちを眺める時、まるで「商品」を品定めする商人のようにぎらついていた。




「これが外区。聖都の、最底辺の場所よ」




 温和な女の声がした。初春の雪解けのような温かみ。  俺は即座に振り返り、断刀に幽藍の光を走らせる。だが、視界に入ったのは白い修道服を着た女性だった。




 シスター・クレア。  八年前、屍の山で俺を見つけ、死んだ老兵たちの目を閉じてくれた従軍牧師。  彼女はあの頃よりずっと成熟していた。透き通るような肌は歳月を経て芳醇な豊かさを湛え、修道服の布地は体に吸い付き、玲瓏れいろうたる曲線を描き出している。まるで熟れきった水蜜桃だ。軽く触れれば、甘い蜜が溢れ出してしまいそうなほどに。




 松のように挽かれた深い茶色の髪、温かい水に浸された黒曜石のような瞳。彼女の唇は自然な桃色で、微笑むたびに浅い梨窪えくぼが浮かぶ。聖潔な修道女でありながら、その佇まいには抗いがたい誘惑が漂っていた。




「閔くん……久しぶりね」




 彼女の声は温かく、俺の瞳の氷焔を見ても怯えることはなかった。

「あなたの体、まだあの時のままなの?」




 俺は刀を下ろした。

「なぜ、ここにいる」

 「救済所の手伝いに来ているの。……ついてきて。ここは話をする場所じゃないわ」



 彼女は腰を落とし、子供たちに麦餅を差し出した。蹲るその動作ひとつでさえ、貴族特有の優雅さを失わず、同時にその豊かな体つきを強調している。エルフの少女が麦餅を受け取る時、彼女の指先が俺の袖に触れ、頬を赤らめて俯いた。




 案内されたのは、清潔な救済所。火鉢の光がクレアの白い肌を暖色に染め、その眉目をより情熱的に見せる。彼女は耳元の髪をかき上げた。その仕草には無意識の色香が宿っている。




「八年前、私はここに残り、修道女になったの」




 彼女の過往を知っている。貴族の家柄と婚約を捨て、神に身を捧げることで自由を掴み取った女性。




「閔くん、あなたの背中の蓮……綻びがひどくなっているわ」




 彼女は少し身を乗り出した。その拍子に薔薇と聖水の甘い香りが漂い、はだけた襟元から覗く白い肌が、磁石のように俺の視線を吸い寄せる。彼女の瞳は聖潔だが、その体つきはあまりに扇情的だった。




 「聖都は太平じゃない。特にあの『収容所』には近づかないで。あそこには、悍おぞましい汚れが潜んでいるわ」




 俺は黙って頷いた。その夜、クレアに用意された木屋で炭火を焚く。眠りにつく子供たちの傍らで、俺は戸口に寄りかかり、断刀を抱いて外の闇を凝視していた。 人類の希望と謳われるこの都は、荒野よりも昏い闇を抱えている。一縷の孤魂となった俺は、この影の中で、自らの道を斬り拓かねばならない。

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