第3章「辺境の城と崩れる壁」

領都へ向かう道は、建吾が予想していたよりも整備されていなかった。


 轍の跡が深く刻まれた土の道は、雨が降れば泥濘と化すだろう。道の両側には、放置された畑と、朽ちかけた農家が点在している。老婆の言葉通り、この地域は荒廃の一途を辿っているようだった。


 建吾は歩きながら、周囲の建築物を観察し続けていた。


 石積みの塀。木造の小屋。藁葺きの屋根。どれも、基礎工事という概念が存在しないかのような作りだった。地面に直接柱を立て、その上に構造物を載せている。


 日本でいえば、縄文時代から弥生時代程度の技術水準か。いや、鉄器の存在を考えると、もう少し進んでいるのかもしれない。だが、建築に関しては著しく遅れている。


 歩き始めて半日。建吾は森の中を抜ける道に差しかかっていた。


 木々の間から差し込む光が、斑模様の影を道に落としている。鳥の鳴き声。虫の羽音。風が葉を揺らす音。


 その中に、異質な音が混じった。


 金属がぶつかり合う音。そして——悲鳴。


 建吾は足を止めた。


 音は、道の先、カーブの向こうから聞こえてくる。


 普通であれば、関わらないのが賢明だろう。この世界の常識も法律も、建吾にはわからない。余計なことに首を突っ込んで、命を落としては元も子もない。


 だが、悲鳴が続いている。


 女性の声だ。


 建吾は舌打ちをして、道の脇に落ちていた長い棒——直径五センチほどの木の枝——を拾い上げた。単管パイプのようなもの、と老婆の村で思ったのと似た形状だ。


 足音を殺して、カーブに近づく。


 視界が開けた先に、光景が広がっていた。


 馬車が一台、道を塞ぐように止まっている。その周囲を、五人の男たちが囲んでいた。粗末な革鎧に、錆びた剣。明らかに正規の兵士ではない。


 盗賊だ。


 馬車の御者は、すでに地面に倒れていた。動いていない。その傍で、一人の若い女性が剣を構えた男に追い詰められていた。


 長い金髪。青いドレス。明らかに身分の高い人物だ。しかし、護衛らしき人間は見当たらない。御者だけで旅をしていたのだろうか。


「おい、おとなしくしろよ、お嬢さん」


 盗賊のリーダーらしき男が、下卑た笑みを浮かべて近づいていく。


「身代金を取るだけだ。殺しゃしねえよ……素直に言うことを聞けばな」


 女性は後ずさりながらも、気丈に睨み返していた。


「私は、グライフェンベルク辺境伯家の当主、リーゼロッテ・フォン・グライフェンベルクです。このような蛮行、許されると思っているのですか」


「へえ、辺境伯様か。そりゃあいい。領地を継いだばかりの小娘だって噂は聞いてるぜ。金はあるんだろう?」


 リーダーが手を伸ばす。女性——リーゼロッテは、必死に身をかわそうとした。


 その瞬間、建吾は動いていた。


 考える前に、体が動いた。十五年の現場仕事で培われた反射。危険を察知したら、まず行動する。


 棒を振りかぶり、リーダーの背後から一撃。


 鈍い音がして、男がよろめいた。


「なっ——」


 振り返った男の顔面に、二撃目。


 男は悲鳴を上げて倒れた。


 他の盗賊たちが、慌てて建吾に向き直る。


「何者だ!」


「知るか」


 建吾は棒を構え直した。


 現場では、時に職人同士の喧嘩が起きることもある。酔った勢いで殴り合いになることも、珍しくはなかった。建吾自身、何度かそういった場面に遭遇し、止めに入ったことがある。


 殴り合いの経験が、ないわけではない。


 だが、相手は五人。うち一人は倒したが、まだ四人残っている。全員が剣を持っている。


 勝てるか。


 わからない。だが、逃げるわけにもいかない。


 建吾は、無意識のうちに周囲の空間を把握していた。


 道幅は約四メートル。左右は森。背後にはカーブ。馬車が道を塞いでいるため、盗賊たちが一度に襲いかかれるスペースは限られている。


 つまり、この狭い空間を利用すれば、一対一の状況を維持できる。


 空間を支配する者が、戦いを支配する。


 建吾は一歩後退し、馬車と森の木の間に立った。ここなら、両側から挟み撃ちにされない。


 最初の男が突っ込んできた。剣を振り上げ、建吾の頭を狙う。


 建吾は棒で受け流し、すかさず男の手首を打った。


 剣が落ちる。男が悲鳴を上げて後退する。


 二人目が、今度は突きで攻めてきた。


 建吾は身を捻ってかわし、男の脇腹を棒で殴りつけた。


 三人目、四人目が同時に来る。


 だが、狭い空間では二人同時には攻撃できない。建吾は後方の男を無視し、前方の男に集中した。棒で剣を弾き、そのまま顎を突く。


 男が倒れる。


 最後の一人が、怯えた目で建吾を見ていた。


「な、なんだお前……」


「だから、知らないと言っただろう」


 建吾が一歩踏み出すと、男は剣を捨てて逃げ出した。倒れていた仲間たちも、慌てて起き上がり、森の中へと消えていく。


 静寂が戻った。


 建吾は棒を下ろし、大きく息を吐いた。


 心臓が、激しく脈打っている。手のひらには汗が滲んでいた。


 勝てた。だが、運が良かっただけだ。相手がもう少し訓練を受けた兵士だったら、あるいは魔法を使えたら、こうはいかなかっただろう。


「あの……」


 声がして、建吾は振り返った。


 リーゼロッテが、信じられないものを見るような目で立っていた。


「貴方は……助けてくださったのですね」


「ああ。……怪我はないか」


「私は大丈夫です。でも、御者のトーマスが……」


 リーゼロッテは、倒れている御者の傍に駆け寄った。建吾も近づいて確認する。


 息はある。頭部に打撲傷があるが、命に別状はなさそうだ。


「気絶しているだけだ。しばらくすれば目を覚ます」


「よかった……」


 リーゼロッテは安堵の息を漏らし、それから改めて建吾に向き直った。


「改めて、お礼を申し上げます。私はリーゼロッテ・フォン・グライフェンベルク。グライフェンベルク辺境伯領の当主です」


 建吾は少し考えてから、答えた。


「墨田建吾だ。……旅の者だ」


「スミダ……ケンゴ?」


 リーゼロッテは、聞き慣れない響きに首を傾げた。


「珍しいお名前ですね。どちらのご出身ですか」


「遠い国だ。ここからは、とても遠い」


 嘘ではない。別の世界は、確かに遠い。


「そうですか……。ケンゴ様、もしよろしければ、私の領地へお越しいただけませんか。せめてお礼をさせてください」


 建吾は、リーゼロッテの申し出を聞きながら考えた。


 元々、領都へ向かうつもりだった。城の修繕が行われているという情報を確認し、この世界の建築技術を学ぶために。


 グライフェンベルク辺境伯領が領都と同じかどうかはわからない。だが、辺境伯という称号を持つ以上、それなりの規模の城砦があるはずだ。


 断る理由はない。


「わかった。お言葉に甘えよう」


 リーゼロッテは、ほっとしたような笑みを浮かべた。


      ◇  ◇  ◇


 御者のトーマスが目を覚ましたのは、一時間後だった。彼は自分が気絶している間に起きたことを聞き、建吾に何度も頭を下げた。


 馬車は無事だったため、三人は旅を再開した。建吾は馬車の中でリーゼロッテと向かい合って座り、この世界についての情報を少しずつ聞き出していった。


 グライフェンベルク辺境伯領は、王国の北東部に位置する辺境の地だという。北には魔物の跋扈する荒野が広がり、領地は常に魔物の脅威にさらされている。


 先代の辺境伯——リーゼロッテの父——は、半年前の魔物との戦いで命を落とした。母はそれ以前に病死しており、一人娘のリーゼロッテが、二十歳の若さで領主を継ぐことになった。


「領地の状況は、決して良くありません」


 リーゼロッテは、窓の外を見ながら言った。


「魔物の襲撃で田畑は荒らされ、住民は次々と他領へ逃げています。税収は激減し、城の修繕費用すら捻出できない状態です」


「城の状態が悪いのか」


「ええ。父が存命の頃から、壁には亀裂が走り、天井からは雨漏りがしていました。だが、戦いに追われて修繕する余裕がなかったのです。今ではさらに悪化して……正直、いつ崩れてもおかしくない箇所もあります」


 建吾は、その言葉に興味を覚えた。


「俺に、見せてもらえないか」


「え?」


「城を、だ。俺は……建物の専門家だ。壁や天井の修繕なら、多少は心得がある」


 リーゼロッテは驚いたように目を見開き、それから少し考え込んだ。


「建物の専門家……大工のような方ですか?」


「似たようなものだ。厳密には違うが」


「もし本当にそのような技術をお持ちなら、ぜひ見ていただきたい。ただ……報酬をお支払いする余裕がないのですが」


「まずは見るだけだ。報酬の話は、その後でいい」


 リーゼロッテは、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、ケンゴ様」


      ◇  ◇  ◇


 グライフェンベルク辺境伯領の城砦が見えてきたのは、日が傾き始めた頃だった。


 馬車の窓から見える城は、建吾の予想よりも大きかった。石造りの城壁が丘の上に聳え、その中心には四角い塔が立っている。中世ヨーロッパの城塞に似た構造だ。


 だが、近づくにつれて、その荒廃ぶりが明らかになっていった。


 城壁には、至る所に亀裂が走っている。一部は崩落して、石がそのまま放置されている。塔の壁面にも、雨水が染み込んだ跡が黒く残っていた。


 建吾は、無意識のうちに問題点をリストアップしていた。


 外壁の亀裂——構造的なものか、表面だけか、確認が必要。


 雨水の浸透跡——防水処理がされていない、または劣化している。


 崩落箇所——応急処置すらされていない、人手不足か資材不足か。


 馬車が城門をくぐり、中庭に入った。


 リーゼロッテが先に降り、建吾を城内へ案内する。


「こちらです、ケンゴ様。まずは主塔をご覧いただければ」


 主塔の内部に入った瞬間、建吾は眉をひそめた。


 壁に、大きな亀裂が走っている。幅は指が入るほど。床から天井まで、斜めに貫いている。


 そして、天井。


 所々に染みがあり、一部は石膏のようなものが剥落している。雨漏りの跡だ。


「これは……」


「ひどい状態でしょう。この亀裂は、三年前の地震で生じました。父は修繕を試みましたが、職人を雇う資金がなく……」


 建吾は壁に近づき、亀裂に指を入れた。


 深い。表面だけではない。壁の奥まで貫通している可能性がある。


 彼は視線を上げ、天井を見た。


 梁が見える構造。木造の梁の上に、石の屋根が載っている。だが、梁と壁の接合部に隙間がある。


「構造が歪んでいる」


「は?」


「地震で壁に亀裂が入っただけじゃない。建物全体が、わずかに傾いている。だから、梁と壁の間に隙間ができて、そこから雨水が侵入している」


 建吾は部屋の中を歩き回り、床を踏み、壁を叩き、天井を見上げた。


 床にも、わずかな傾斜がある。北東に向かって、一度(約一センチ)ほど下がっている。


「基礎が沈下しているな」


「基礎……ですか?」


「建物の土台だ。地盤が弱い場所では、重い建物を載せると、地面が沈む。この城は……おそらく、北東側の地盤が軟弱だ」


 リーゼロッテは、理解しようと必死に聞いていた。


「それは、直せるのですか」


「直せないことはない。だが、時間と資材がかかる。まずは、どの程度の問題があるのか、全体を調査する必要がある」


 建吾は、主塔を出て城内を歩き回った。


 リーゼロッテがついてくる。家臣らしき人々が、怪訝そうな目で建吾を見ていたが、リーゼロッテが何か言葉をかけると、黙って道を開けた。


 城砦全体を見て回るのに、二時間かかった。


 その間、建吾の頭の中では、問題点が次々とリストアップされていった。


 外壁の亀裂——十二箇所。うち、構造的に危険なものが三箇所。


 雨漏り——八箇所。うち、放置すれば木部の腐食を招くものが五箇所。


 床の傾斜——主塔を含む三棟で確認。最大で二度(約二センチ)。


 窓枠の歪み——開閉に支障があるものが六箇所。


 扉の建て付け不良——四箇所。


 そして、最も深刻な問題。


 北東の塔——構造的な限界に達しつつある。このまま放置すれば、数年以内に崩壊する可能性がある。


 調査を終えた建吾は、リーゼロッテを城の中庭に呼び出した。


 日はすでに沈み、中庭には松明の火が灯されている。その揺れる光の中で、建吾は調査結果を説明した。


「結論から言う。この城は、今すぐ大規模な修繕が必要だ」


 リーゼロッテの顔が、蒼ざめていった。


「そんな……どの程度の費用がかかるのですか」


「それを言う前に、優先順位の話をさせてくれ。全部を一度に直すのは不可能だ。だから、まず何を先に直すべきかを決める必要がある」


 建吾は、地面に棒で図を描きながら説明した。


「第一優先は、北東の塔だ。ここは構造的に危険な状態にある。人が住んでいるなら、すぐに退去させろ。崩壊の恐れがある」


「あそこは……使用人の居住区です」


「全員、他の場所に移せ。今夜中にだ」


 リーゼロッテは家臣に指示を出した。家臣は驚いた顔をしていたが、リーゼロッテの真剣な表情を見て、すぐに動き始めた。


「第二優先は、雨漏りの補修だ。水は建物にとって最大の敵だ。放置すれば、木部が腐り、構造材そのものがダメになる。早急に止める必要がある」


「はい」


「第三が、主塔の壁の亀裂。これは見た目も悪いし、放置すれば広がる。だが、今すぐ崩壊する危険は低いから、後回しでいい」


 建吾は棒を置き、リーゼロッテを見た。


「問題は、資材と人手だ。この修繕には、大量の石材、木材、そして……もし可能なら、特殊な金属が必要になる」


「特殊な金属?」


「軽くて強い金属だ。この世界に、そういうものはあるか」


 リーゼロッテは考え込み、それから答えた。


「ミスリル合金……でしょうか。非常に軽く、鉄より硬い魔法金属です。ただ、極めて高価で……」


「どこで手に入る」


「以前は、この領地の鉱山で採れました。でも、十年前に魔物が巣くって以来、採掘は中断しています」


 建吾は、その情報を頭に刻んだ。


「その鉱山の場所を、後で教えてくれ」


「ケンゴ様……貴方は本当に、この城を直せるとお考えなのですか」


 リーゼロッテの声には、期待と不安が混じっていた。


 建吾は、夜空を見上げた。


 二つの月が浮かんでいる。一つは白く、もう一つは薄い青。異世界の空だ。


 だが、建物は変わらない。壁があり、天井があり、床がある。それを守り、修繕し、より良くしていく仕事。それは、この世界でも同じだ。


「直せるかどうかは、やってみないとわからない。だが、俺にはそれをやる技術がある。……問題は、この世界の材料と道具で、どこまでできるかだ」


「では……お願いできますか。この城の修繕を」


 建吾は、リーゼロッテの目を見た。


 まっすぐな瞳。必死さと、それでもなお残る誇り。領主としての責任を背負おうとする、若い女性の覚悟。


 建吾は、わずかに笑った。


「報酬の話は、後だったな」


「は、はい……申し訳ありません、今は——」


「飯と寝床でいい」


「え?」


「当面は、飯と寝床を提供してくれれば、それでいい。報酬は、城が直ってから考えろ」


 リーゼロッテは、しばらく呆然と建吾を見つめていた。


 それから、その目に涙が滲んだ。


「あ、ありがとうございます……ケンゴ様……」


「泣くな。まだ何も始まっていない」


 建吾は背を向け、夜空を見上げた。


 明日から、この世界での本当の仕事が始まる。


 壁を立て、天井を張り、床を敷く。


 人が生きる場所を、守る場所を、作る。


 それが、内装工・墨田建吾の仕事だ。


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