第2章「異世界の朝」
集落に近づくにつれて、建吾は違和感を覚え始めていた。
遠目には牧歌的な田園風景に見えたその場所は、近づいてみると荒廃の色が濃かった。畑の作物は伸び放題で、明らかに手入れがされていない。家屋の壁には亀裂が走り、屋根は一部が崩落している。
そして、人の気配がない。
十数軒の家屋が点在する小さな集落だったが、通りには誰もいなかった。煙を上げていたのは、村外れの一軒から細く立ち上る煙だけ。それ以外は、すべてが静まり返っていた。
建吾は慎重に歩を進めた。
靴底が、乾いた土を踏む音だけが響く。風が吹くたびに、壊れかけた扉がきしんだ。
——廃村か。
いや、完全な廃村ではない。煙が上がっているということは、誰かがいる。建吾はその煙の元へと向かった。
村外れの家屋は、他と比べればまだましな状態だった。壁にはひび割れがあるものの、屋根は健在で、窓には布が垂れ下がっている。
扉の前で、建吾は立ち止まった。
ノックするべきか。だが、この世界のマナーがわからない。無礼な行為をして、いきなり敵対されても困る。
迷っている間に、扉が内側から開いた。
現れたのは、老婆だった。深い皺が刻まれた顔、白く濁った瞳、杖にすがるように立つ痩せた体。彼女は建吾を見上げ、ゆっくりと口を開いた。
「……旅人かい」
言葉が、通じた。
日本語ではない。だが、意味が直接頭に入ってくる感覚。建吾は自分の口を動かし、返事をした。
「ああ。道に迷って、ここに辿り着いた」
自分の声が、知らない言語を話していた。それなのに、話している本人には日本語のように聞こえる。奇妙な感覚だったが、建吾は動揺を表には出さなかった。
老婆は、しばらく建吾を見つめていた。警戒と、それ以上の疲弊が、その目に浮かんでいた。
「……入りな。外は危ない」
建吾は頷き、家の中に入った。
内部は薄暗かった。小さな窓から差し込む光が、わずかに室内を照らしている。土間があり、その奥に居間らしき空間。囲炉裏で火が燃え、鍋が煮えていた。
建吾の目は、自然と壁や天井の状態を追っていた。職業病だ。
土壁。おそらく木舞下地に土を塗りつけた構造。天井は梁が剥き出しで、茅葺きか何かが直接載っている。断熱性は低く、気密性もほぼない。冬は寒く、夏は暑いだろう。
壁には、いくつかの亀裂が走っていた。経年劣化と、おそらくは地盤の不同沈下による構造的な歪み。補修された形跡はない。
「座りな」
老婆が囲炉裏の傍を指差した。建吾は言われるまま腰を下ろした。
老婆は鍋から椀に何かをよそい、建吾に差し出した。薄い粥のようなものだった。
「食べな。たいしたものはないけど」
「……ありがとう」
建吾は椀を受け取り、一口すすった。味は薄いが、温かさが体に染みた。
老婆は向かい側に座り、じっと建吾を見ていた。
「どこから来たんだい、旅人」
「遠くからだ。……この村は、何があったんだ」
老婆の目が、わずかに曇った。
「魔物だよ。半年前から、この辺りに出るようになった。畑は荒らされ、家畜は殺され、若い者は逃げ出した。残ったのは、逃げられない年寄りだけさ」
「魔物」
「ああ。領主様は何もしてくれない。兵を送る余裕がないんだとさ。辺境の小さな村なんざ、見捨てられたのさ」
建吾は黙って聞いていた。
魔物。ファンタジー小説でよく出てくる概念だ。この世界では、それが現実として存在する。
そして、領主。封建制度のような社会構造があるということだ。
「この辺りの領主は、誰なんだ」
「グライフェンベルク辺境伯様さ。もっとも、今は御当主が亡くなって、若いお嬢様が継いだばかりだとか。戦(いくさ)続きで、領地は疲弊しきっている」
建吾は頷いた。情報を整理する。
この世界には、魔物と呼ばれる脅威がある。封建制度に近い社会構造。領主は存在するが、末端までは手が回っていない。戦争が頻発しており、社会は不安定。
そして、建築技術は——
建吾は改めて室内を見回した。
低い。技術水準が、低すぎる。
土壁は原始的で、補修の技術すらまともにない。この程度の亀裂なら、日本の左官屋なら半日で直せる。だが、この世界では、それすらできていない。
壁の隅に、何かの道具が立てかけてあった。建吾は目を細めて見た。
曲尺(かねじゃく)のようなもの。直角を測る道具だ。だが、明らかに精度が低い。目盛りも大雑把で、ミリ単位の測定は不可能だろう。
「その道具は」
「ああ、これかい。うちの爺さんが大工だったんだよ。もう二十年も前に死んじまったけどね」
老婆は懐かしそうに道具を見た。建吾は黙って、その曲尺に似た道具を手に取った。
木製。経年で歪んでいる。だが、構造は間違っていない。直角を測るという発想は、この世界にもある。
ただ、精度と技術が追いついていない。
建吾は道具を戻し、老婆に向き直った。
「俺は……建築の仕事をしていた」
「建築?」
「家を建てたり、直したりする仕事だ」
老婆の目が、わずかに輝いた。
「それは……大工仕事かい?」
「似たようなものだ。壁を立てたり、天井を張ったりするのが専門だった」
老婆は少し考え込むように俯き、それから顔を上げた。
「なら、旅人よ。この家の壁を直せるかい。冬が来る前に、何とかしたいんだが……金はないから、飯と寝床くらいしか出せないけど」
建吾は壁の亀裂を見た。
土壁の補修。専門外ではあるが、原理は知っている。亀裂部分を削り、下地を調整し、新しい土を塗り込む。日本の伝統工法だ。
だが、問題は材料と道具だ。この世界の土の性質がわからない。藁すさや石灰の代用品があるかもわからない。
とはいえ——
「できるか試してみる」
建吾は立ち上がった。
これが、この世界での最初の「仕事」になる。まずは、材料と道具の調査からだ。
外に出て、周囲を観察する。集落の家屋は、すべて似たような構造だった。木造の骨組みに、土壁。屋根は茅か藁。基礎は、ほぼないに等しい。直接、土の上に柱を立てている。
地盤が緩ければ、不同沈下を起こすのは当然だ。
建吾は地面にしゃがみ、土を手に取った。
粘土質。水を含むとよく練れそうだ。これに繊維質のもの——藁や草——を混ぜれば、ある程度の強度は出せる。
問題は、乾燥時の収縮だ。土だけでは、乾くと縮んで亀裂が入る。現代日本では、これを防ぐために砂や石灰を混ぜる。
この世界に、石灰に相当するものはあるか。
建吾は立ち上がり、集落を歩いた。廃屋を一軒一軒確認していく。住人はいないが、残された道具や材料が、この世界の技術水準を教えてくれる。
ある家の裏手で、建吾は足を止めた。
白い粉が、袋に入れられて放置されていた。雨に濡れて固まりかけているが、まだ使えそうだ。建吾は手に取り、匂いを嗅ぎ、舌先で少量を舐めた。
石灰だ。消石 ite——いや、生石灰に近いか。殻を焼いて作ったものかもしれない。
これが使える。
建吾は袋を持ち上げ、老婆の家に戻った。
「これ、使わせてもらっていいか」
「ああ……それは昔、漆喰を塗ろうとして買ったんだが、爺さんが死んでそのままさ。使えるなら持っていきな」
建吾は頷き、作業の準備を始めた。
水を汲み、粘土質の土を掘り起こし、藁を集める。石灰を少量ずつ混ぜ、練り具合を確認する。
異世界だろうと、物理法則は変わらない。土と水と繊維の配合比率、乾燥収縮率、接着強度——数十年の経験が教えてくれたノウハウを、一つずつ検証していく。
日が傾き始めた頃、建吾はようやく満足のいく配合を見つけた。
壁の亀裂部分を削り、下地を調整し、練り上げた土を塗り込む。コテは、廃屋で見つけた錆びた金属板を加工して作った。
作業は深夜まで続いた。
老婆は最初、興味深そうに見ていたが、やがて眠りについた。建吾は一人、囲炉裏の火を頼りに、壁と向き合い続けた。
これが、俺の仕事だ。
異世界だろうと関係ない。
壁の亀裂を塞ぐ。空間を守る。人が安心して眠れる場所を、作る。
それだけだ。
夜明け前、建吾は作業を終えた。補修した壁は、乾けば元よりも強固になるはずだ。少なくとも、この冬は持つだろう。
建吾は汚れた手を見下ろした。
パテを塗る感触。ボードのジョイントを均す作業。何千回、何万回と繰り返してきた動作だ。それが、異世界でも同じように機能した。
不思議な達成感があった。
老婆が目を覚ましたのは、朝日が窓から差し込んだ時だった。彼女は壁を見て、目を丸くした。
「これは……」
「乾くまで触らないでくれ。三日もすれば、しっかり固まる」
「旅人……あんた、本当に大工かい。こんな仕事、見たことがないよ」
建吾は肩をすくめた。
「俺は大工じゃない。内装工だ」
「ないそう……?」
「壁や天井、床を仕上げる専門職だ。家を建てるのは別の人間がやる。俺は、その後の仕事を担当する」
老婆は首をかしげたが、建吾の言葉の意味を完全には理解していないようだった。この世界には、内装という概念自体がないのかもしれない。
だが、それでいい。
今はまだ、この世界を知る段階だ。
「なあ、婆さん。この辺りで、建物を建てている場所はあるか。大きな工事をしている場所とか」
「建物……ああ、そういえば、領都では城の修繕をするとか言ってたね。もっとも、金がなくて進んでいないらしいけど」
「領都は、ここからどのくらいだ」
「馬で半日ってとこかね。歩きなら、二日はかかるよ」
建吾は頷いた。
城の修繕。大規模な建築工事。そこに行けば、この世界の建築技術について、もっと詳しく知ることができるだろう。
そして、もし俺の技術が役に立つなら——
建吾は窓の外を見た。二つの太陽が、地平線から昇り始めていた。
新しい朝だ。
新しい現場が、待っている。
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