異世界転生したら内装工だった件 ~壁を立てて国を救う職人無双~

もしもノベリスト

第1章「足場からの落下」

コンクリートの粉塵が、白い光の筋となって宙を漂っていた。


 墨田建吾は、五階の天井裏で息を殺していた。ヘッドライトの光が照らす先には、縦横に走るダクトと、その隙間を縫うように配置された野縁受けのチャンネル材。吊りボルトの間隔を確認しながら、彼は額に滲んだ汗を作業着の袖で拭った。


「現場代理人。三階のクロス屋から、納まりの件で呼ばれてます」


 下から職長の声が響いた。建吾は返事をして、慎重に点検口から身を乗り出す。三十七年間この体を使ってきたが、最近は膝の軋みが気になるようになった。


 大型商業施設の内装工事。着工から四ヶ月、工期の折り返し地点を迎えていた。建吾が所属する内装会社は、このプロジェクトで壁と天井の下地から仕上げまでを請け負っている。LGS工事、ボード工事、クロス工事、床工事——それぞれの専門職人を束ね、工程を管理し、品質を担保するのが、現場代理人である建吾の仕事だった。


 エレベーターは資材搬入で占領されているため、階段を使う。踊り場を曲がるたびに、異なる作業音が耳に飛び込んでくる。四階からはインパクトドライバーの甲高い回転音。三階では、パテを練る攪拌機の低いうなり。二階からは、床材を切断する丸鋸の断続的な悲鳴。


 建吾にとって、これらの音は交響曲のようなものだった。各パートが正しいタイミングで、正しい音量で鳴っている限り、現場は順調に進んでいる。


「墨田さん、ここなんですけど」


 三階の一角で、クロス職人の田所が困り顔で立っていた。彼の背後には、下地処理を終えたばかりの壁面が広がっている。建吾は近づいて、田所が指差す箇所を確認した。


 ボードのジョイント部分。パテは塗られているが、わずかに段差が残っている。指先で触れると、微かな凹凸を感じた。


「ボード屋の増し打ちが甘かったな」


「クロス貼ったら、ここ浮きますよね」


「ああ。光が当たる角度によっては目立つ」


 建吾は腰のベルトからスマートフォンを取り出し、黒板アプリを起動した。現場名、日付、撮影箇所、指摘事項を入力し、写真を撮る。この一枚が、後の手直し工事の根拠となり、場合によっては追加費用の請求材料にもなる。


「パテの追加塗りで対応できる。上塗り用のワイドで、もう一層かけてくれ」


「了解です」


 田所が頷いて作業に戻る。建吾はその場を離れ、次の確認ポイントへ向かった。


 内装工事の現場代理人という仕事は、地味だ。華やかな設計図を描くわけでもなく、重機を操って大地を動かすわけでもない。ただひたすら、図面と現場の間を往復し、誤差を潰し、問題を予防し、記録を残す。


 しかし建吾は、この仕事に誇りを持っていた。


 建築の躯体——鉄筋コンクリートや鉄骨で組まれた構造体——は、それだけでは人が住めない。ただの箱だ。その箱に壁を立て、天井を張り、床を敷き、仕上げを施すことで、初めて「空間」が生まれる。人が呼吸し、眠り、語らい、夢を見る場所。それを作るのが、内装工の仕事だった。


 昼休憩の時間が近づいていた。建吾は事務所に戻り、朝から溜まっていた書類作業に取りかかる。


 パソコンを開き、グリーンサイトにログイン。明日入場予定の職人の作業員名簿を確認する。社会保険の加入状況、健康診断の受診日、保有資格——システムが自動でチェックをかけ、不備があれば警告を表示する。


 一件、警告が出ていた。明日から入る床工事の職人の一人、高所作業車の資格証の有効期限が今月末で切れる。建吾は職長に電話をかけ、更新済みの資格証のコピーを今日中に送るよう依頼した。


 こうした細かい事務作業の積み重ねが、現場を止めないための防波堤になる。書類一枚の不備で、職人が入場できなくなることもある。それは工程の遅延を意味し、遅延は追加コストを意味し、追加コストは会社の利益を圧迫する。


 午後一時。現場が再び動き出す。


 建吾は五階に上がり、今日の重点確認箇所である開口部周りの施工状況を見て回った。ドアや窓などの開口部は、建物の振動や開閉時の衝撃で応力が集中しやすい。ここでの施工精度が、後々のクラック(ひび割れ)発生を左右する。


 ボードのジョイント位置を確認する。開口部のコーナーから垂直にジョイントが来ていないか。来ていれば、そこからクロスが切れやすくなる。


「よし」


 問題なかった。ボード屋の職長に伝えてある施工ルールが、きちんと守られている。建吾は黒板を持ち、良好な施工状況を記録するための写真を撮った。


 不具合だけでなく、適正な施工も記録する。それが品質証明になる。


 午後三時。建吾は再び天井裏に上がっていた。


 五階の一角で、天井の不陸(ふりく——水平でないこと)が報告されていた。レベルを確認するため、レーザー墨出し器を設置する。赤い光線が水平に走り、野縁の位置を照らし出した。


 やはり、一部が下がっている。吊りボルトのレベル調整が不十分だったようだ。建吾は問題箇所の写真を撮り、軽天屋の職長に連絡を入れた。


「明日の朝一で、この範囲のレベル再調整をお願いします。ナットを回して、水平を出し直してください」


 電話越しに、職長の「了解です」という声が聞こえた。


 問題を発見し、原因を特定し、是正を指示する。その繰り返しだ。派手なことは何もない。だが、この地道な作業の積み重ねが、最終的な品質を決定する。


 午後五時。定時を過ぎても、建吾の仕事は終わらない。


 事務所に戻り、今日撮影した工事写真の整理を始める。写真の枚数は、一日で百枚を超えることも珍しくない。それぞれに黒板情報を確認し、フォルダに分類し、ファイル名を付ける。


 単純作業だが、手は抜けない。竣工後、何か問題が発生したとき、この写真が唯一の証拠になる。壁の裏側、天井の上——完成すれば二度と見えなくなる「隠蔽部」の施工状況を、写真として残しておくことの重要性を、建吾は十五年のキャリアで嫌というほど学んできた。


 午後七時。ようやく写真整理が終わり、建吾は事務所を出た。


 現場は静まり返っていた。日中の喧騒が嘘のように、コンクリートの壁が沈黙を返してくる。非常灯の青白い光だけが、廊下を照らしていた。


 帰り際、建吾は五階に寄った。明日の朝確認する予定の箇所を、もう一度見ておきたかった。


 足場が組まれた一角。高さ三メートルほどの作業台の上に、レーザー墨出し器を置き忘れていることに気づいた。高価な機材だ。放置しておくわけにはいかない。


 建吾は足場に手をかけ、慣れた動作で上り始めた。


 その時だった。


 足場の一段目を踏んだ瞬間、固定されていたはずの単管パイプが、ずるりと滑った。


 体が傾く。反射的に手すりを掴もうとしたが、指先は虚空を掻いただけだった。


 視界が回転した。天井の配線ダクトが流れ、壁のボード面が飛び、コンクリートの床が迫ってきた。


 衝撃。


 後頭部に、何か硬いものがぶつかる感触。


 痛みは一瞬だった。その後は、不思議な浮遊感だけが残った。意識が霧散していく中で、建吾は奇妙なことを考えていた。


 ——明日の朝礼、誰が仕切るんだ。


 ——床屋の職長に、資格証の件、もう一回念押ししておかないと。


 ——写真のバックアップ、クラウドに上げたっけ。


 仕事のことばかりだった。家族はいない。独身のまま三十七年。両親は他界し、兄弟もいない。友人と呼べる存在も、ほとんどいなかった。


 人生の大半を、現場に捧げてきた。壁を立て、天井を張り、床を敷くことに、すべてを費やしてきた。


 それを、後悔しているわけではない。


 ただ——


 ——もう少し、何かあってもよかったかもしれないな。


 意識が闇に沈んでいく。遠くで、何かの音が聞こえた気がした。


 鳥の鳴き声。


 風の音。


 木々の葉が擦れ合う、さやさやという囁き。


 そして——


 光が、瞼の裏側を焼いた。


      ◇  ◇  ◇


 目を開けた。


 最初に見えたのは、青空だった。


 都会の、煤けた灰色ではない。どこまでも透明で、深い青。雲は白く、ゆっくりと流れていた。


 建吾は、仰向けに倒れていた。背中の下には、柔らかい草の感触。鼻腔をくすぐるのは、土と緑の匂い。耳には、鳥のさえずりと、どこか遠くで流れる水の音。


 夢か。


 そう思った。事故で意識を失い、病院のベッドで夢を見ているのだろう。そうに違いない。


 だが、夢にしては、感覚が鮮明すぎた。


 建吾は上体を起こした。頭がくらりと揺れたが、痛みはない。後頭部に手を当てても、傷も血も感じられなかった。


 周囲を見回す。


 草原だった。見渡す限りの緑の丘陵が、緩やかにうねりながら地平線まで続いている。背後には深い森。前方には、煙を上げる小さな集落が見えた。


 そして——


 空に、二つの太陽があった。


 一つは黄色く、もう一つはわずかに赤みを帯びている。二つの光源が作り出す影は、複雑に重なり合い、奇妙な陰影を草原に落としていた。


「……は?」


 声が出た。自分の声だ。だが、その響きがどこか違う。若い。張りがある。


 建吾は自分の手を見た。


 皺が消えていた。三十七年の歳月が刻んだ、節くれだった指。爪の周囲に染みついた塗料の痕。それらが、すべて消えている。代わりにあるのは、二十代前半のような、滑らかで若々しい皮膚だった。


 服装も変わっていた。作業着ではなく、粗い麻のような素材のシャツと、革のベルトで留めたズボン。足元は、簡素な革靴。


 建吾は、ゆっくりと立ち上がった。


 体が軽い。膝の軋みがない。腰の鈍痛もない。十五年の現場仕事で蓄積した肉体の疲弊が、すべて消えていた。


 これは——


 夢ではない。


 異常すぎる。現実離れしている。だが、感覚のすべてが、これが夢でないと告げていた。


 建吾は、深く息を吸った。


 パニックを起こしても意味がない。状況を把握する。現状を分析する。対策を立てる。それが、現場代理人の仕事だ。


 まず、自分の状態。体は若返っているが、記憶は完全に保持されている。内装工としての知識、技術、経験——すべてが、頭の中にある。


 次に、環境。明らかに、日本ではない。地球ですらないかもしれない。空に二つの太陽がある世界。中世ヨーロッパのような服装。


 結論。


 ——俺は、異世界に転生した。


 小説やアニメで見聞きした設定だ。馬鹿馬鹿しいと思っていた。だが、今、自分がその当事者になっている。


 建吾は苦笑した。


 三十七年、真面目に働いてきた。朝から晩まで現場を駆け回り、書類を作成し、職人と交渉し、品質を管理してきた。その結果が、これか。


 何の因果か知らないが、別の世界に放り込まれた。


 さて、どうするか。


 遠くの集落を見る。煙が上がっているということは、人がいる。まずは情報収集だ。この世界がどういう場所なのか、自分がどういう状況に置かれているのかを把握しなければならない。


 建吾は、草原を歩き始めた。


 足取りは軽い。若い体は、思った以上によく動いた。風が頬を撫で、草の匂いが鼻をくすぐる。


 不思議と、恐怖はなかった。


 むしろ、どこかで——本当にどこか奥深くで——期待のようなものを感じていた。


 新しい現場だ。


 そう思った。


 知らない世界、知らないルール、知らない素材。だが、空間を作るという仕事の本質は、きっと変わらない。


 壁を立てる。天井を張る。床を敷く。


 人が生きる場所を、作る。


 それが、墨田建吾という人間の存在意義だった。


 この世界でも、きっとそれは同じはずだ。


 集落に向かって歩きながら、建吾は空を見上げた。


 二つの太陽が、まばゆく輝いていた。


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