第10話
夜明け前、尋問室の扉が開いた。入ってきたのは数名の武装した憲兵、そして、軍服を完璧に整えているが、目をはらし憔悴した様子のエイリル少佐だった。
「……イエーガー被告。連行する」
彼女の声には、感情の揺らぎなど一切なかった。老科学者は、床に落ちたチョークを拾い上げ、指先の粉を軽く払うと、ゆっくりと立ち上がった。
「等価交換……だったな、少佐」
イエーガーは憲兵に両腕を掴まれながら、エイリルをじっと見つめた。エイリルの懐には、昨夜書き写した、世界を変える『未完成の宿題』が隠されている。
「ええ、そうです。博士。私はあなたから、帝国が欲した以上の情報を引き出しました。この二か月、私はあなたから……すべてを奪った」
「ふん。奪われたのではない、お前に投資したのだ。私の全てをな」
イエーガーは、処刑場へと向かう廊下の入り口で、一度だけ足を止めた。そして、初めて、教え子を誇るような優しい笑みを浮かべた。
「……さらばだ、エイリル。良い授業だった」
エイリルは、彼が連れ去られた後の尋問室に、一人残された。
そこには、焼け焦げた部品と、真っ白に書き込まれた黒板。そして、彼が最後に残した紅茶の空のカップだけがある。
数分後、遠くで一度だけ銃声が響いた。
エイリルは肩を震わせることもなく、ただ静かに、黒板に書かれた数式を一つずつ消していった。その手つきは、あたかも儀式のように丁寧だった。帝国の情報局がこの部屋を検分した時、そこには価値のある情報は一行たりとも残っていなかった。
「……等価交換。そうですよね、先生」
彼女の目から、一筋の涙が床に落ちた。
イエーガーから託されたのは、国を滅ぼすための力ではない。その先にある、科学が人間を救うための『希望』という名の呪い。
エイリルは、その重すぎる対価を胸に、再び軍服の襟を正して部屋を出た。
彼女の瞳は、もはや帝国の軍人のものではない。
歴史の裏側で、師を超えようとする一人の科学者の、果てしない旅がここから始まったのだ。
尋問~エイリル少佐とイエーガー博士~ 法行 @Noriyukiyoda1212
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