小学校中学年編
第19話 静止の極致 ―― 日本舞踊に宿る「無」の演算
九歳。それは平均的な児童であれば、抽象的な思考が芽生え、社会性が発達し始める時期だ。しかし白石玲奈にとって、そのプロセスはとっくに「完了」していた。母・仁美は、玲奈の冷徹なまでに完成された合理性に、ある種の危うさを感じ、彼女を日本舞踊・藤間流の名門家元、藤間松鶴の門下に放り込んだ。「静止の美」を学ぶことで、娘に「溜め」や「余白」という情緒が芽生えることを期待したのだ。
だが、玲奈は稽古場に足を踏み入れた瞬間、その空間を別の視点で捉えていた。 そこは檜の香りが漂う清浄な舞台ではなく、「重力と摩擦系数、そして関節の可動域が織りなす高度な力学シミュレーター」だった。
(……なるほど。バレエが抗重力の跳躍を目指す『外向的』な運動なら、日本舞踊は重力を自らの骨格の深部に封じ込める『内向的』な運動。基本姿勢である『腰を入れる』動作。これは、大腿骨と骨盤を繋ぐ大腰筋をアイソメトリック(等尺性)に収縮させ、重心を地面から数センチの位置に固定する行為ね)
玲奈の脳内では、前世の営業マン時代に培った「土下座一歩手前の、相手を完全に威圧しつつも自らを崩さない、重心の低い謝罪姿勢」の極意が、解剖学的な骨格モデルと瞬時にマッピングされた。
初めての稽古。松鶴家元が「すり足」を実演した。床を滑る足袋の音が、微かな摩擦音を立てる。「さあ、玲奈さん。歩いてごらんなさい。形を真似るのではなく、大地と対話するように」 玲奈は頷き、一歩を踏み出した。その瞬間、松鶴は目を見開いた。
玲奈の歩みには、初心者が必ず起こす「上下動」が皆無だった。彼女は、左足から右足へ体重を移動させる際、骨盤の傾斜を0.1度単位で微調整し、重心の水平移動を数学的に完璧な直線へと変換していた。
(……床材の檜の摩擦係数は0.25。足袋の綿布との接触面積を一定に保つことで、動摩擦力を一定に制御する。……腕の振り。上腕三頭筋を弛緩させつつ、遠心力を利用して袖の布を『波』として伝播させる)
彼女が舞う『藤娘』は、もはや少女の可憐さを演じるものではなかった。
それは、「空間というキャンバスに、肉体という筆で、最もエントロピーの低い幾何学模様を描き続けるプロセス」そのものだった。
松鶴は、玲奈の舞いに恐怖を感じた。そこには情緒の「余白」などない。あるのは、一切の無駄を削ぎ落とした、絶対的な「正解」としての動きだった。
「……白石さん。あなたの舞いには、『意図しない揺らぎ』が微塵もありません。まるで、完成されすぎた自動人形(オートマタ)を見ているようだわ」
玲奈は、扇子を閉じ、静かに一礼した。
「家元。美しさが『秩序』であるならば、私の舞いはその秩序を最も効率的に表現した結果に過ぎません。……余白が必要なら、次に舞うときは心拍数を意図的に乱してみましょうか?」
九歳の少女から発せられたその問いに、家元は答えを窮した。
玲奈にとって日本舞踊は、情緒を学ぶ場ではなく、自身の肉体を「完璧に制御可能な精密機械」へとチューニングするための、過酷なキャリブレーション(校正)の場となったのである。
二度目の人生は、白衣の中で @yamatokawatoumi
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