第18話 習い事の休息 ―― バレエ:身体の調律と重力の拒絶

 土曜日。白石玲奈にとって、最も「自分の肉体」と対話できる静謐な時間が、このバレエレッスンだった。


 青山にある名門バレエスタジオ。鏡張りの壁に囲まれたその空間は、玲奈にとって「自身の質量を確認するための秤(はかり)」に等しかった。


 バー・レッスンが始まる。ピアノの伴奏が流れる中、玲奈は静かに「デミ・プリエ」を行う。


(……膝蓋骨の挙動をミリ単位で制御。……大腿直筋の過緊張を避け、深層外旋六筋による骨盤の安定。……このスタジオの床材の摩擦係数は0.3。つま先立ち(ポワント)で立った瞬間、私の全体重は、わずか数平方センチメートルの接触面に集中する。……この一点に、宇宙の重力全てが収束していくような感覚)


 彼女の動きには、他の子供たちに見られる「震え」が一切ない。通常、人間は静止していても、微細な筋肉の調整による不随意な揺れが発生する。だが、玲奈は脳からの信号をデジタル信号のように完璧に処理し、身体を「物理的な静止画」へと変えてしまうのだ。


「……白石さん。あなたの身体は、まるで……時が止まっているみたい。余計なノイズが一切ないわ」


 バレエ教師の震えるような称賛。 レッスンは終盤の跳躍(アレグロ)へと進む。玲奈は、音楽の拍動を物理的な「バネ」へと変換し、宙へと跳んだ。その瞬間、スタジオにいた全員が、重力の存在を疑った。


(……滞空時間は、重力加速度 g によって支配される。……しかし、空中で四肢を伸長し、重心の位置を動的に変化させることで、落下開始のタイミングを脳内の予測から『遅延』させることができる。前世の俺が、無理な納品期限をなんとか延ばそうと足掻いていた理屈と同じね。物理も営業も、結局は『時間のマネジメント』だわ)


 着地。音もなく、衝撃をすべて足首から膝、股関節へと美しく逃がす。その動作には一分の無駄も、一分の甘えもない。


 玲奈は、窓の外に広がる、夕闇に沈む都心の摩天楼を見つめた。


(……低学年という名の『潜伏』は、もう終わりね。……佐藤くんが走り始め、結衣ちゃんが音を捨てた。……そして私の指先も、もうバーを触るだけでは満足できなくなっている。……パパの書斎にある、あの難解な術式の続きを知りたくてたまらない)


 低学年編という名の、静かなる侵食。その幕は、彼女の完璧な着地と共に、静かに、けれど決定的に下ろされた。彼女の視線はすでに、三年生という新たな階梯の先にある、より過酷な「伝統」と「血の現実」を見据えていた。

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