第17話 【別視点】佐藤大和の懊悩 ―― 「隣を歩くための資格」と血の滲む努力

 佐藤大和は、自分の部屋で、玲奈の模試の結果が載った塾の会報を破り捨てるように握り締めていた。


 彼の偏差値は68。本来なら賞賛されるべき数字だが、独立したグラフの頂点にいる「白石玲奈」の前では、ただの背景に過ぎない。


「……ふざけるなよ。……何だよ、これ。同じ人間じゃないか」


 大和は、自分がこれまで受けてきた最高級の英才教育が、彼女という巨大な才能を前にした「砂遊び」に見えた。彼は、初めて「敗北感」という猛毒に侵されていた。だが、その毒は、彼の中で別の感情――「彼女が見ている世界を、僕も欠片でいいから見てみたい」という、狂おしいまでの探求心へと変質していった。


 大和は、がむしゃらな行動に出た。


 図書室で玲奈が借りていた本のタイトルを必死に覚え、本屋へ走った。しかし、そこに並んでいたのは『解剖学図譜』や『流体力学の基礎』といった、ルビすらない大人の専門書だった。小学2年生の彼にとって、それは外国語の呪文も同然だった。


 それでも大和は諦めなかった。


 彼は子供向けの図鑑や、一番簡単な医学入門漫画を山のように買い込み、まずは「玲奈が使っている言葉の意味」を一つずつ潰していった。


「……左心房……乱流……層流……」


 深夜、ノートにびっしりと書き込まれた言葉の定義。玲奈なら一瞬で理解する概念を、彼は数日かけて、頭を抱えながら、血が滲むような思いで咀嚼していく。それは「天才」に対する「凡才」の、唯一にして最大の反撃だった。


 サッカー部の練習でも、彼はただボールを追うのをやめた。


「……白石さんが言っていた『物理的な予測』。……僕にはまだ計算できないけど、風の向きや芝の状態を、誰よりも『観察』することならできるはずだ」


 彼は練習後も一人残り、ひたすらボールを蹴り続けた。足首の角度が1度変わるだけで、ボールの回転がどう変わるか。それを、理屈ではなく「肉体の記憶」として刻み込もうとしたのだ。


 ある日の放課後。大和は校門で玲奈を待っていた。


「白石さん! ……これ、君がこの間言ってた、アーセナルの下部組織がやってる練習の……解説記事だよ。……英語だったから、パパの辞書を使って、一週間かけて翻訳したんだ。……足首をこう固定すると、ボールに伝わるエネルギーのロスが減るって書いてあった。……僕、昨日の練習で百回試したんだ。そしたら、最後に一本だけ、すごいシュートが打てたんだよ!」


 大和の必死な、けれど輝きに満ちた瞳。その手には、ボロボロになった辞書と、書き込みで真っ黒になったノートがあった。


 玲奈は、少しだけ足を止めた。


 そこには、かつての自分が憧れた、けれど手に入らなかった「泥臭い努力による、唯一の正解への到達」の兆しがあった。


「……佐藤くん。……それを一人で、翻訳したの?」


「……うん。……三日前から、ほとんど寝てないけど……でも、君が話していた『合理的な美しさ』が、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、捕まえられた気がしたんだ」


 大和は、震える手で胸を張った。玲奈は、彼の目の下の深いクマと、一生懸命に言葉を紡ごうとする熱量を見つめた。


 そして、この人生で初めて、同級生に対して「敬意」に近い感情を抱いた。


「……佐藤くん。……あなたのその努力は、私の計算には入っていなかった『変数』よ。……面白いわ。また、あなたが『見つけたもの』があれば教えて」


 玲奈の言葉は、大和にとって、どんなメダルよりも重い勲章だった。彼は、自分が彼女の「隣」を歩くための、最初で最も困難な、けれど確実な一歩を踏み出したことを確信した。

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