第15話
早朝から本格的に太陽が昇るまでのごく短い時間、三人で泉のほとりにいることがエリーザベトにとって一日のうち一番楽しい時間だった。
男と娘が取っ組み合いして遊ぶかたわら、エリーザベトは集め終わったソフィアの花を水桶に束ねて入れる。
「この子はお昼寝から目覚めたときもきょろきょろしてあなたを探しています」
ソフィアに突撃されて大袈裟な悲鳴をあげながらごろんと倒れた彼は、エリーザベトを見上げて微笑んだ。
「へえ? そんなに俺と遊びたいのかな、ソフィア? 何がしたい? かけっこ? ボール? お花かな?」
小さな娘はきゃらきゃら笑いながら男の胸と腹の上を這い回っている。
男は両手で幼女の脇を抱えて頭上に持ち上げ、鼻先同士を擦り合わせて明るい笑い声を立てた。
エリーザベトはもうそれに手を出そうとは思わない。
彼がソフィアを身体から落とさず、そのほかのどんな危険な目にも合わせないことはわかっていた。
ソフィアは満面の笑みで彼の頬を撫で回し、うんうん頷きながら言う。
「お花、お花。あとね、ねこちゃん」
「ねこちゃん? ねこちゃんは見てないなあ。このへんにいるのかい?」
「人が多くなりましたから、目につかないところに隠れているのだと思います。もう少し静かになりましたら出てくると思いますわ」
修道院の誰かが餌付けをしたので居着いた猫が、エリーザベトの知る限り五匹ほどこの近辺を根城にしていた。
時々、ねずみを取ってきて炊事番にご褒美のミルクをもらうのを見たことがある。
「ソフィアはねこちゃんが好きだものね?」
「うん」
「そうなのか。ソフィアの友達なの?」
「うん」
幼い娘は誇らしげに胸を張った。
エリーザベトは愛しさがそのまま形をとったような手つきで彼女の髪を撫でた。
彼はその手をうっとり見上げたあと、苦も無く腹の力で起き上がりソフィアを胡坐の上に座らせる。
少女の深い青い目と同じ色の目を合わせ、低すぎない落ち着いた声でゆっくりと言った。
「ソフィア、どれほどねこちゃんが好きでも、この泉の近くで彼らを追いかけてはいけないよ。君は足を滑らせて、水に落ちてしまうだろう」
エリーザベトは昔、同じことを言われたのを思い出した。
あれはいったい誰の言葉だったのだろう。――夫だろうか? 彼にそっくりな男の声で思い出すということは?
けれど確証はなかった。
今ならば認めることができる。
エリーザベトはこの三年間、必死にマティアスのことを思い出さないようにしてきた。
そうしなければ自分が惨めすぎて、モニカのように現実から逃げてしまっただろう。
今でこそ仲のいい夫婦を見かけても微笑ましく思えるようになっていたが、一時期は寄り添う男女を見るたび涙が滲むほどだったから。
エリーザベトは眉を顰め、彼は何かを勘違いして少し申し訳なさそうにした。
「すまない。俺の口から言うことではなかったな。君の娘なのに」
「いいえ、気にかけてくださるのは嬉しいですわ。でも……私は娘にそんな危ないことさせません」
「……わかっているけれど、この子を見ているとどうしても言わなければならないと思ってしまうんだ。君にもだ。危ないことはしてほしくない。ずっと安全なところにいてほしい」
思ってもいない言葉にエリーザベトは固まった。
それはまるで、妻の身を案じる夫の言葉のようだった。
じわじわ頬が熱くなっているのを感じて、ソフィアがいなければ走って逃げたかった。
みっともない。
年増の、子持ちの、なんの技術も見識もない修道女見習いが物慣れぬ娘のような反応をして。
黙りこくった大人たちを見上げ、ソフィアは不思議そうにしたあと男の胸元の紐を引っ張って遊んだ。
やがて目がとろんとしてきて、くありと欠伸をした。
まだ夕方の時間に寝て、早朝に起き出し、パンを食べて水汲み、それからもう一度スープ付きのパンを食べて遊び、お昼寝、夕食、そして早々に就寝というのがソフィアの一日である。
昨日は興奮して寝るのが少し遅かった。
それからたくさん遊んで疲れたのだろう。
エリーザベトが手を広げると娘は大人しく抱かれにきてくれた。
いいと言うのに男は天秤棒と水桶を抱え上げ、うとうとするソフィアを抱っこしたエリーザベトの後に続いて修道院までの坂道を下った。
いつになく道が短かった気がした。
彼が後ろにいる、エリーザベトの肩に乗った娘の顔を見つめている、と知っているだけで何もかもが違っていた。
木々のざわめきはフルートの音のよう、小鳥の声は金の鈴、味気ない土を固めただけの道は非常に歩きやすく、まるで大理石を敷き詰めたダンス場のよう。
エリーザベトは腕の中の娘の熱い身体をそっと揺すり上げる。
じわじわ生まれる感情をまだうまく制御できないでいる。
彼と過ごす時間が日常に組み込まれるまで日数はかからなかった。
エリーザベトは自分や女たち以外の人間にソフィアを触られるのが嫌だったが、彼に対してはそう思わなかった。
例えるならエリーザベトの中にあらかじめ彼のための椅子があり、持ち主が帰ってきて当たり前に座ったのだ、という感じがした。
そして困ったことに――それは密会だとか、逢引きと呼ばれるものにとてもよく似ていた。
「これって不倫なのかしら」
と、掃除道具置き場などで一人茫然と呟くエリーザベトは、自分の頬がそれでも熱く熱を持っていることがわかるのだった。
どうしよう。
エリーザベトは夫の家から逃げ出して以来、再び自分にこんな気持ちが溢れることがあるとは思わなかった。
こんな、一人の男性に魅力を感じ、彼が自分をどう思うか気にかける気持ち。
ソフィアの母親として、ただその役割だけの女性として生きるはずだったのに。
自分で自分に呆れ返りながら、それでももう少し、もう少しだけ。
この優しい場所で、礼儀正しい見て見ぬふりをしてくれる親切な人たちの中で、幸せな時間を感じたかった。
嬉しそうなソフィアを見たかった。
毎日、彼と彼らは泉のほとりで遊んだ。
彼はソフィアを頭の上に高く高く掲げ、ひょいっと放り投げて遊んだので幼女は歓声を上げ、エリーザベトは失神しそうになった。
花を摘むソフィアの仕事を彼は手伝い、二歳児から花束の色や大きさを合わせる方法を説明されフンフンと聞き入った。
腰の高さでぶんぶん振り回されたソフィアは心から楽しそうに笑って笑って、むせるまで笑った。
地面に降ろされてひとしきり撫でられたあと、もう一回と言ってきかなかった。
彼はそのせいでちょっと腰を痛めた。
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