第14話


 そう思っていたから、油断していた。


 五日後の早朝、いつものようにソフィアと一緒に泉まで坂道を昇って、すっかり平穏を取り戻した街が目覚める様子を眺めて、そして朝の光に満ちて白く清らかに凪いだ泉の水面に目を戻したとき。

 そのほとりに彼が立っていて、やあ、と手を上げたのを目にして。

 エリーザベトは棒立ちになってしまった。


 ソフィアが聞き取れない幼児語できゃああっと叫び、嬉しそうに彼に向かって走った。

 母親ははっと意識を取り戻した。


「ダメよ、ソフィア! 彼は怪我してる!」

 慌てて追いかけ、両手を広げてかがんだ彼の目の前で、踵を地面にめり込ませて娘を止めた。

 彼は残念そうに、照れたように笑って彼女たちを見上げた。


「大丈夫ですよ。全部浅い傷で、命に関わるようなものはひとつもないんだ。包帯は巻いているけど見た目ほどひどくないし。よければ娘さんを抱っこさせてくれませんか?」

 エリーザベトは交差させた腕をゆるゆると解いて、ソフィアがぽんと彼の腕の中へ飛び込むのを見守る。

 ソフィアは上機嫌だった。

 いつも寝起きは意識が朦朧として、泉に着いてようやくパチリと目が開く子なのに。


「あぴゃぴゃ!」

 と赤ちゃんみたいにカン高い声で笑って、ぱたぱた手足を動かし彼の顔を掴もうとする。

 頬どころか細い首まで紅潮し、きらきらした青の目は興奮のせいで余計に色濃くなっていた。

 こんなに嬉しそうな娘の姿を見るのは、エリーザベトは初めてだった。


「すみません。ありがとうございます……」

「いいや。娘さんと過ごせるのは俺の喜びです」

 彼は足にソフィアをまとわりつかせたまま立ち上がり、右腕を胸に当てて丁寧な礼をした。


「助けてくださりありがとうございました。おかげさまで回復も早く、すぐにでも任務に復帰できそうです。俺の名前もわかりました――俺の名は、ハンス・トリオンと言います」

「ハンス様、ですか」

 エリーザベトは胸を突き抜けるような突然の痛みを感じる。

 それでは彼は、マティアスではないのだ。


 軍人は皆、ベルトに小さな金属プレートを下げている。

 そこにはその者の名前、所属、出身地が刻み込まれており、もしも顔が潰れたり行方不明になる死に方をした場合でもプレートが残って入れば安否を知ることができた。

 もっとも、ただのプレートだから他人のものを挿げ替えたりはできるし、そうやって逃亡兵となる男もいるのだと噂を聞く。


 だが彼が――ハンスが取り出したプレートには確かにその名前と、所属連隊と司令官の部隊名、そしてルスヴィアの地名が刻まれていた。


 エリーザベトはまだ信じきれない思いだった。

 これほど似ているのに彼はマティアスではないのか。


 だが彼の顔をよく見てみると、確かに他人の空似にも思えてくる。

 彼の輪郭線は何度も飢えを潜り抜けた人のようにきゅっと鋭く、立ち上がるときに少しふらつくのも若く堂々としていたマティアスの動きとは違ったものだ。

 何より、夏の空の色の目が覚えているもの以上に鋭い。

 顔は笑っていても目の端であちこち見渡しているのがわかる。

 マティアスはこんな目つきをしなかった。


 疑えば疑うほどきりがない。

 それに――それに、もし彼がマティアスだったとして、エリーザベトは何がしたいのか?


(もしも彼がマティアスなら、美しい魔法使いのお嬢さんの恋人がいるのよ、エリーザベト。私はただの、彼の子供の母親でしょう)

 愛された記憶は、ある。

 だがたった一か月のことだ。

 魔法使いの彼女は彼と戦争中ずっと一緒にいた。

 たったの一か月と、たっぷり三年!

 比較するのもばからしい。


 エリーザベトは無理に笑みを作ってソフィアを引き寄せた。


「ハンス様、お元気になられてよかったです。もうお立ちになるのですか?――ソフィア、めっ」

 小さな娘は母親の手をなんとか外して男の方に寄ろうとじたばたする。

 むうむう声を出しているのは大人同士の会話に横入りするなと言い続けた成果だったが、その代わりに足の甲を踏まれたり手を齧られたりと、幼児ながら容赦がない。


「それが軍に問い合わせたのですが終戦で混乱しているらしく、返答はなしのつぶてで……しばらく修道院に身を寄せます。どうやら俺は力仕事が得意のようなので、畑を担当させてもらえそうなんです。あああ」

 彼は礼儀正しくエリーザベトに話しながらも、目線はちらちらとソフィアを向く。

 小さな手足で動く娘の一挙手一投足が可愛らしいらしく、ソフィアがエリーザベトの脛をげしげし蹴り始めるととうとう膝をついた。


「こら、ママを痛めつけてはだめだよ。母親にそんなことしていい子供は世界じゅうどこにもいないよ。こっちにおいで」

 エリーザベトは手を緩めた。

 彼のほほえみは柔和で、心からソフィアを慈しみたがっているのがわかったからだった。

 やっと拘束が解かれてにぱっと笑った娘は彼の腕の中に飛び込んだ。


 エリーザベトはもう一度謝ろうとしが、やめた。

 二人はあんまりにもしっくりきていた。

 日の光を浴びて、娘の薄い白っぽい金髪は黄金のよう、彼のダークブラウンの髪はなめらかに波打つ上等の毛皮のようだった。


 彼はソフィアの頭を撫で、恐る恐るだが抱き寄せた。

 彼女の小さな頭を自分の胸に寄りかからせ、背中とお尻をがっしりした腕で支えた。

 ソフィアが彼の首に腕を回して落ち着くと、大人たちはどちらともなく安堵のため息をついた。

 彼の身体は二歳児を支えるには十分力強かったが、手つきはわりと、危なっかしかった。


「そういえば、お二人はここへ何をしに?」

 と彼は顔を上げて聞く。

 エリーザベトは天秤棒と水桶を示した。


「水汲みです。私の仕事なんですの」

「君の細腕でそんな仕事をするなんて信じられないな」

 冗談を言っているのかと思ってエリーザベトは笑おうとしたが、彼はいたって真剣だった。

 包帯まみれなのに手を伸ばして天秤棒を取ろうとする。


「俺がやろう」

「怪我人なのにだめでしょ」

 慌ててエリーザベトは棒を取り返した。

 彼はソフィアを抱えたままきょとんとした。


 口に出してしまってからエリーザベトも、自分の口調がまるで我が子を叱るようだったことを後悔した。

 立派な男にすべきではない口答えだった、彼は怒るだろうか?


 エリーザベトは恐る恐る彼の様子を伺ったが、すぐに彼はぷっと吹き出して豪快に笑い始めた。

 高らかに晴天に向かって響く大声にエリーザベトは目を丸くし、ソフィアと顔を見合わせる。

 そのうち小さな娘は状況が楽しくなって、手を叩いて男と一緒に笑い始めた。


「もう、なんなんですの……」

 エリーザベトが呆れて見守るうちに、大小の二人はすっかり打ち解け合って抱き合い、転げまわる。

 あっという間に砂まみれになる娘のスカートにエリーザベトは首を振ったが、止めることはできなかった。

 どころか彼女自身もだんだん楽しくなって笑いに加わった。


 泉に笑い声の波紋が生まれ、小鳥がピイピイ唱和した。

 平和と平穏に満ちた穏やかなひとときだけがそこにあった。


 男は毎朝、泉で二人を待つようになった。

 ソフィアは早起きすれば朝一番で彼と遊べるのだと理解したらしい、すっかり寝起きがよくなり夜に寝るのも速やかになった。


 エリーザベトと彼は相談して、水汲みを交互にやることにした。

 エリーザベトが水を汲み上げている間は彼がソフィアと遊び、女の子が彼に飽きたら母親が代わり、その間に彼が修道院まで何往復かしてしまう。

 そうするとあっという間に一日ぶんの水が汲み終わり、大人たちはどちらもソフィアと遊ぶ時間ができるという寸法だった。


 どういうわけか修道女の区画にいる女たちは、こそこそと水を瓶にうつす男の姿に気づいているはずなのに何も言わない。

 エリーザベトはそれに甘えて、誰かに叱られるまでこのままでいたいと思ってしまう。


 水の仕事が終わればあとはみんなで花集めをして、ソフィアはそれを誇らしげに修道院まで持っていく。

 大人たちに仕事ぶりを褒められ得意になっているときのソフィアはとても愛らしかった。


 思えばエリーザベトがこれまでしてきた方法では、ソフィアは十分に花を吟味する時間がなかったように思う。

 娘の仕事をより完璧にしてくれた彼に、エリーザベトは感謝した。


 

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