第16話
何かが始まりつつある予感があった。
だがエリーザベトはすべてに蓋をしようとした、ただソフィアだけを見つめて彼女のためだけに生きたかった……だって二度目は、いやだ。
夫が自分より若く美しく、特別な才能を持った女の子を選んだと聞くなんて?
彼の方も小さな娘を特別気にかけているから、大人二人の視線は自然とぶつかり合うことになる。
ソフィアが持ち帰ってきた花束を厳しい目で検分する間、彼らは並んで座りその小さなお尻を眺めていた。
汗で張り付いた薄い金髪の分け目が見えるくらい、子供との距離は近かった。
エリーザベトは手を伸ばして娘の髪の毛を後ろに束ねてやった。
リボンを結び終えて膝に戻したその手を、倍ほども大きく温かい乾燥した手が覆った。
はっとして目をやると、彼はただソフィアを眺めている。
狩りが成功して飢えを満たし、心から満足した野生の獣が自分の縄張りを眺めるかのような目だった。
穏やかで、満ち足りて、愛に溢れている。
手を引き抜こうとしてもやんわりとだがしっかり力の入った男の手は離れてくれず、それ以上抵抗する気もエリーザベトにはなかった。
心臓がどきどきして、彼の手首が少しだけ太腿に触れているところが熱くてたまらなかった。
はしたなくない程度に足を斜めに揃えていたが、ああもっときちんと揃えていればよかったと後悔した。
ようやく満足のいく色合いに調整で来たらしい、きゃあっと笑ったソフィアは彼らを振り返る。
花を両手に抱えて駆けてくるのを受け止めるため、彼は彼女の手を放した。
ほっとしたのもつかの間、その手はさっと彼女の足首を撫でた。
靴とスカートの合間の、白い肌が覗いているところを一瞬だけ。
柔らかく、骨の芯まで体温が響くくらいに。
頬が爆発するかと思った。
エリーザベトはただ俯いて、ソフィアの晴れやかな笑い声を聞いていた。
髪の毛をまとめていたせいで、顔を隠してくれるものは何もない。
娘の肩越しに男の視線が突き刺さるようだった。
エリーザベトはソフィアに腕を伸ばし、抱きしめた。
娘の髪の香りが彼女を現実に引き戻した。
それからソフィアを抱いて帰る道すがら、ずっとどきどきしっぱなしだった。
……エリーザベトはこれほど愚かだったろうか。
ソフィアのことをちっとも思いやれない、ひどい母親なのだろうか。
そう思うと眠れなかった。
ジュリエットが何のことはないように言い出したのは、ある昼下がりに小さな階段を二人で掃除していたときだった。
「夏祭りがそろそろだね」
歌うような、だが慎重な声色だった。
エリーザベトは窓から流れるソフィアの声に耳を傾けていたので反応が送れた。
木の葉は青々としていたが、だんだん風が冷たい季節が近づいてきていた。
だから朝の仕事が終わるとまだ遊び足りないソフィアをサラに任せ、暖かい室内に置いていたのである。
「ソフィアも祭りのダンスや屋台を見に行きたいだろうね」
「ええ、そうね。でも小さすぎるもの。踏み潰されちゃうわ。もし迷子にでもなったら大変だわ」
その頃には世情も落ち着きを見せ始め、終戦の浮かれっぷりと混乱からくる人の移動もある程度収まった。
レーレン河の近隣地域にも生き残った兵士たちが帰ってきた。
彼らは恋人を見つけ、家庭に落ち着きたがるだろう。
そして夏祭りは恋人たちのための祭りだった。
新しい命が村や街にやってくる準備を擦る祝祭だ。
街の広場の中心に巨大なかがり火が焚かれ、その周りに若い男女がペアとなって繰り出し、一日中踊り狂う。
ダンスのペアは次々に代わり、夜になり、月が最高点に達したとき、青年は娘に結婚を申し込んでもよいとされる。
娘が了承したら、婚約確定だ。
修道院が特別に目をつぶる夏祭りの一夜では、たくさんの幸せが生まれあるいは悲劇が生まれた。
男同士の殴り合いで死傷者が出る年もあれば、誰からも選ばれなかった娘が翌朝にとぼとぼと道を歩いて修道院の門を叩くこともあった。
元々は親が許さなかった若い男女がなし崩し的に結婚するための風習だったというこの祭りに、これまでエリーザベトは興味がなかった。
自分には関係ないものだと思っていたから。
「でも、あんたはダンスに参加すべきだと思うよ」
ジュリエットは茶目っ気たっぷりに大柄な体を揺する。
彼女が笑うとそばかすがキラキラと星の砂のように輝き、こっちまで陽気な気分にさせられる。
「ソフィアはあたしたちで見ておくさ。あんたはまだ若い。相手を見つけるべきだ――例えば、あんたの娘にとびきり優しくしてくれる、背が高くて威勢のいい迷子の軍人さんとかね!」
「ジュリエット!」
彼女は大声で笑い、ホウキを片手に踊りながら逃げていった。
階段の上の踊り場や下の洗濯のための池を掃除している他の人たちに聞かれなかったかと、エリーザベトはひやひやした。
生命はそこに存在するだけで神の恩寵であるというのは、信仰を持つ人であれば皆知っている当たり前の事実だった。
子供は神の贈り物であり、いるだけで周りを幸せにする宝物だ。
レーレン修道院にはたくさんの孤児がいた。
修道院の一番外側の区画には学校がある。
傷病者の対応という大仕事も落ち着いた今頃、授業の再開も近いだろう。
そこには周辺の街や村の子供たちも通っている。
孤児たちは親のいる子供たちと変わらない教育を受け、時には子供のいない家庭に養子として引き取られ、そうでなくても高い教養を身に着け、神のしもべ、魔法使い、教師、通訳、秘書などあらゆる職業に就くことができた。
終戦によって故郷に帰った者、修道院に定住すると決めた者、修道士や修道女の誓いを立てた者とさまざまだったが、彼らは皆口を揃えて修道院への感謝を口にする。
エリーザベトだってそうだ。
もしレーレン修道院にたどり着けなかったら、ソフィアともども野垂れ死にしていてもおかしくなかったのだ。
エリーザベトはここが好きだ。
離れたくない。
修道院にいる間、こんなにも心が静かで……泉は美しくて……。
けれどそれだけだった。
エリーザベトは自分の中にそれ以外の幸せを求める本能があることを自覚していた。
それは一人の男性を愛し、彼の子を産み、幸せになりたいという原始的な叫びだった。
そしてきっと彼女を受け入れてくれるだろうと確信できる男性をひとり、知っていた。
ハンスという名前を名乗る、夫によく似た人。
それに、ソフィアは?
あの子がこの閉ざされた楽園で大きくなり、外の世界を知らないまま成長していくのは本当に最善だろうか?
エリーザベトは考え、考えながら手を動かす。
欄干の藻や埃を取り、磨き、ごみを集め、小枝や枯れ葉や虫の死骸の山を作り、火をつける。
小さな炎を見つめていると、どんどん頭の中が混沌としていくのがわかった。
ふわりと肩に温かいものが乗り、見上げると背の高いジュリエットが上着をかけてくれた状態からぱっと両手を挙げる。
「ごめん。そんなに悩むとは思わなかったんだよ」
「ううん。こちらこそ、ごめん……。気にしてくれているのはわかっているの」
「エリーザベト。幸運というのは掴むべきときに掴まないと過ぎ去ってしまうのよ」
エリーザベトは頷いた。
ジュリエットは優しい目をして微笑んだ。
「私、彼と話してみるわ」
エリーザベトはホウキを見下ろした。
ジュリエットはぱっとそれを取り上げ、片目をつぶる。
エリーザベトはあたりを見回し、誰も彼女たち二人に注目していないことを知るとジュリエットの頬にキスをして、踵を返し駆け出した。
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