海〜Lozt soulz〜
the memory2045
①
199X年。
眩いばかりの初夏の陽光。
それらがプリズムの束になり、穏やかな波面の瀬戸内海に乱反射している。
かつて軍用港として栄え、今では巨大な貨物船が横付けされる宇品港「一万トンバース」。その岸壁の端、錆びついた係留柱に腰を下ろし、海を眺めている男がいた。
宇品灯台の守り人、五島(ごとう)だ。59歳。雪のように真っ白な顎髭を蓄えた彼は、この港の生き字引のような存在だった。だが、彼には公にできない秘密の役目がある。
「……そろそろ、潮が満ちる」
五島が独り言ちると、背後のコンクリートの隙間から、奇妙な足音が響いた。
「シケの匂いがする。沖の方で、誰かが泣いとる」
現れたのは、使い古したハンチング帽を被った「猫人」のテトだった。二足歩行をし、人の服を着ているが、その顔は紛れもなく茶トラの猫だ。彼はこの港に住み着き、猫の言葉と人の言葉を繋ぐ「通訳」を自称していた。
「泣いてる? この凪いだ海でか」
「海は、おもてだけじゃないんよ。底の方に、古い想いが溜まっとる。今日はそれを拾う『掃除屋』が来る日じゃけえ」
テトが指差した先。
一万トンバースの巨大な影から、一艘の古びた小型船が滑り出してきた。船体に「豊丸」とグレーの掠れた字で書かれたその船には、三十歳の女性、ナギが立っていた。彼女はこの海を漂い、陸に上がることのない船上生活者だ。
ナギの船が岸壁に近づくと、彼女は慣れた手つきでロープを投げた。五島がそれをがっしりと受け止め、係留柱に巻き付ける。
「五島さん、テト。今年も『響き』を預かりに来たわよ」
ナギの声は、潮騒のように澄んでいた。彼女の役割は、海に沈んだ人々の未練や、言葉にならなかった想いを「音」として回収し、クリーンなトーンに変換することだ。
「今日は特別なんよ。例の『中世の亡霊』がこの近くまで来とったらしいわ」
五島が言うと、ナギは頷き、船の甲板に置かれた奇妙な楽器を引き寄せた。それは、いつの日かロンドンの路地裏で老人が奏でていたハーディガーディに酷似していた。しかし、ナギのそれは、流木を削り出して作られたような、より有機的な形をしていた。
「海には、ハーディガーディの枯れた音が必要なの。絶え間なく鳴り続ける低音が、迷える記憶を呼び戻すから」
ナギが、おもむろにハンドルを回し始めた。
グゥゥ、という地鳴りのような音が、一万トンバースの冷たいコンクリートを震わせる。
その音に呼応するように、海面が白く泡立ち始めた。
「出たっ! !」
テトが尻尾をぴんと立てて叫ぶ。
海の中から、無数の光の粒が浮かび上がってきた。それはかつてこの港から戦地へ向かった兵士の別れの言葉であり、貧しさに耐えかねて海へ身を投げた者の溜息であり、そして、家族の帰りを待ち続けた女たちの祈りだった。
重低音が、それらバラバラな感情を一本の糸に紡いでいく。ナギが鍵盤を叩くと、切なくも温かい旋律が光の粒を包み込んだ。
「······お帰り」
ナギが呟く。光の粒は、彼女のハーディガーディの中に吸い込まれていく。それは「浄化」というよりは、冷たい海底で凍えていた想いたちに、温かい木の家を与えてやるような作業だった。
ふと、一つの大きな光が五島の前に留まった。
それは、かつて彼がこの港で失った、幼い日の友人からの「約束」のパズルピースだった。
「それは、あんた自身の記憶じゃけえ、受け取ってやりんさい」
テトが優しく鳴いた。五島が震える手でその光に触れると、胸の奥に眠っていた古い傷痕が、じわりと温かな涙に変わって溶けていった。
一時間ほど経っただろうか。演奏が止まると、一万トンバース周辺の空気は驚くほど澄み渡っていた。1990年の活気ある街の音——車のクラクションやクレーンの稼働音——が、どこか誇らしげに響き始めた。
「これでまた一年、この海は静かに眠れるよ」
ナギは額の汗を拭い、五島に微笑みかけた。
「ナギ、たまには陸に上がって温かい飯でも食わんか。テトが魚を欲しがっている」
五島が誘うと、テトは
「刺身!!」
と大声で鳴いた。
ナギは少し困ったように笑い、
「また今度ね。まだこの先、呉の方まで音が溜まってるから」
と言って、船のエンジンをかけた。
「ブウゥゥゥゥン·········」
夕暮れ時。一万トンバースの巨大な影が海に長く伸びる中、ナギの船はゆっくりと沖へ向かっていった。その背後からは、かすかに、けれど確かな足取りで、ハーディガーディの晩秋に舞う枯れ葉のような音が響き続けていた。
「あの楽器は、魔法か何かなのかい?」
五島が呟くと、テトが彼の足元に擦り寄った。
「魔法とはちがうけん。ありゃあ『忘れられてたまるか』いう、人間のしぶとい意志の音よぉの」
二人は、太陽が沈みきるまで、黄金色に染まる海をずっと眺めていた。
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