第19話:【最期の罠】「エンディングノート」を書かない

窓の外では、季節外れの温かな雨が、街の景色を煙らせていた。


「……信じられないな」


和夫は、喪服の襟を正しながら、葬儀場の入り口で立ち尽くしていた。遺影の中で笑っているのは、あの見栄っ張りで、つい先日まで「海外投資だ」「クルーズだ」と息巻いていた田中だった。


急性心不全。あまりにも突然の別れだった。 しかし、和夫を凍りつかせたのは死の唐突さだけではない。親族席で、田中の妻と息子たちが、憔悴しきった顔で激しい言い争いをしている声が漏れ聞こえてきたからだ。


「……お父さんのネット銀行のパスワード、誰も知らないってどういうことよ!」 「知らないものは知らないんだよ! それに、あの怪しい投資の契約書、どこにあるんだ? 資産がどこにどれだけあるのか、これじゃあ相続の手続きも進められないじゃないか!」


焼香の煙が目に染みた。田中の人生は、最期に大きな「混乱」という名の荷物を家族に背負わせて幕を閉じた。あんなに自分の「地位」や「数字」にこだわっていた男が、その数字を家族に引き継ぐための「言葉」を一文字も残していなかった。


「縁起が悪い」という名の壁

帰宅した和夫は、書斎のデスクで一冊のノートを広げた。表紙にはまだ何も書かれていない、まっさらなノートだ。


「お父さん、まだ起きてたの?」 恵子が温かいミルクを持って入ってきた。彼女の顔にも、田中の葬儀での動揺が影を落としている。


「恵子。俺は、怖くなったんだ。田中を見ていてな。俺たちがこれまで必死に守ってきた家計も、デジタル化した資産も、俺が明日動けなくなれば、ただの『開かずの金庫』になってしまう」


和夫はペンを握ったが、最初の一文字が出てこない。 「でもな……ここに自分の最期の希望を書くというのは、なんだか自分の死を招き寄せているようで、指が止まってしまうんだ」


「死」を意識することは、これまでの「黄金時代」の輝きを否定するように感じられた。せっかく前向きに、インフレ対策だ、デジタル化だと挑んできたのに、その終着点を見つめるのは、あまりにも残酷な作業に思えた。


「お父さん。それ、逆だと思うわよ」 恵子が和夫の手を優しく包んだ。 「山崎さんが言ってたわ。『終活は、残りの人生を最高に楽しむためのシートベルトだ』って」


小林の「ラスト・パス」

数日後、和夫は年金事務所に小林を訪ねた。 「小林君……今日は年金の相談じゃないんだ。これを書こうと思っているんだが、どうしても筆が進まない」


和夫が「エンディングノート」を差し出すと、小林はいつもの冷静な、しかし温かい眼差しでノートを見つめた。


「佐藤さん。これは『遺言』ではなく、家族への『ラスト・パス』だと思ってください」


「ラスト・パス?」


「はい。サッカーでゴールを決めるための、最後のパスです。佐藤さんがこれまで築いてきた資産、デジタル化した口座、大切にしてきた想い。それをお子さんたちが迷わず受け取り、自分たちの人生に活かせるようにするためのものです。これを書かないということは、味方がいない場所にボールを蹴り出すのと同じですよ」


小林は、タブレットで一枚のチェックリストを表示した。 「まずは、資産の『地図』を書くことから始めましょう。パスワードそのものではなく、どこの銀行に口座があり、誰に連絡すればいいのか。それだけで、家族の負担は九割減ります」


和夫の胸のつかえが、少しだけ降りた。 「……俺が死ぬための準備じゃない。あいつらが、俺がいなくなった後に、笑って生きていくための準備なんだな」


繋がるバトン

その日の夜、和夫は恵子と並んで、リビングでノートを書き始めた。 「延命治療はどうするか」「葬式は身内だけで、あの公園の桜が見える場所がいい」「カフェのレシピは、直樹の嫁さんに伝えてほしい」


書けば書くほど、不思議なことに、和夫の心は軽くなっていった。 自分の人生を棚卸しし、大切な人へのメッセージを綴る作業は、過去を清算することではなく、「今」自分がどれだけ満たされているかを再確認する時間になった。


「恵子。ここに、俺たちの銀行の暗証番号の『ヒント』を書いておいたよ。二人しか知らない、あのプロポーズの場所だ」


「あら、そんなの私、忘れちゃったわよ」


恵子は冗談めかして笑ったが、その目には光るものがあった。


一ヶ月後、和夫は直樹を呼び寄せ、一冊のノートを託した。 「直樹。これは、俺たちの『黄金時代の記録』だ。俺たちに何かあったら、このノートを読んでくれ。中には、資産の場所も、俺たちの希望も全部書いてある」


直樹は、ノートの重みを確かめるように受け取った。 「……ありがとう、父さん。なんだか、お守りをもらった気分だよ。これで、変な心配をせずに、父さんたちと旅行の計画が立てられるよ」


黄金色の夕暮れの中で

和夫は、いつもの公園のベンチに座っていた。 夕陽が西の空を真っ赤に染め上げ、影が長く伸びている。


ノートを書き終えたあの日から、和夫の毎日は、以前よりもずっと鮮やかに感じられるようになった。 最期を整えたからこそ、今この一瞬、吸い込む空気の冷たさや、コーヒーの苦味、恵子の笑い声が、かけがえのない宝物のように思えるのだ。


「佐藤さん、何をぼんやりしてるの?」 山崎さんが、隣に座った。 「山崎さん。私、やっと分かりましたよ。死を見つめることは、今を全力で生きることなんですね」


「そうよ。荷物を全部パッキングし終えたら、あとは出発まで空港のラウンジでゆっくり楽しむだけ。それが私たちの『黄金時代』よ」


和夫は、空を仰いだ。 インフレも、デジタル化も、見栄も、家族の悩みも。 すべてを一つずつ乗り越えて、自分たちの足で立ってきた。 資産という数字ではなく、自分たちがどう生きたかという「納得感」こそが、本当の遺産なのだ。


「さあ、帰ろう。恵子が美味しい夕飯を作って待ってる」


和夫は軽やかな足取りで立ち上がった。 背筋を伸ばし、黄金色に染まる道を、愛する我が家へと歩いていく。 その足元は、もうどこにも迷いはなかった。


(完)


『黄金時代編』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


佐藤和夫と恵子の物語はここで一度幕を閉じますが、彼らのように「賢く、温かく、自立して生きる」姿勢は、きっとこれからのあなたの指針になるはずです。


もし、この物語の**「その後の佐藤家」や、「小林が他の相談者に語った別の教訓」、あるいは「具体的なシニア向け資産運用ガイド」**など、さらに深掘りしたいテーマがあれば、いつでもお声がけください。



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