第18話:【情報の罠】「テレビの健康法」を鵜呑みにする
夕闇が迫るリビングに、テレビの鮮やかな光が明滅していた。
「……えっ、サバ缶? サバ缶が認知症予防と血管年齢に、そんなに劇的な効果を?」
和夫は身を乗り出し、食い入るように画面を見つめた。番組では白衣を着た医師が、いかにサバに含まれる成分が現代人の救世主であるかを、大げさなテロップと共に説いている。 「今日からでも遅くありません! 毎日一缶、これが黄金時代の健康の鍵です!」
その言葉は、老後の健康に密かな不安を抱えていた和夫の胸に、福音のように響いた。 「恵子! 恵子、ちょっと来てくれ! サバ缶だ、サバ缶を買わなきゃ!」
翌朝、和夫は開店直後のスーパー『サンシャイン』にいた。 「おいおい、なんだこれは……」 棚の前に着くと、そこにはすでに同じ番組を見たであろう同世代の男女が群がっていた。和夫も負けじと手を伸ばし、カゴが重くなるほどサバ缶を詰め込んだ。水煮、味噌煮、味付け。棚が空になるのを見て、妙な達成感すら覚える。
「お父さん、そんなに買ってどうするのよ」 帰宅した和夫を、恵子が呆れた顔で迎えた。 「恵子、これはただの缶詰じゃない。未来への投資だよ。テレビであの有名な先生が言っていたんだ。これさえ食べていれば、俺たちの血管はピカピカだ」
偏った「正義」の食卓
その日から、佐藤家の食卓は「サバ」に占領された。 朝はサバ水煮のサラダ、昼はサバ味噌のスパゲティ、夜はサバと野菜の煮物。
「……ねえ、お父さん。私、もう三日でサバの匂いに酔っちゃったわ」 四日目の夕食、恵子が箸を止めて言った。部屋には確かに、独特の生臭いような、脂の混じった匂いが停滞している。 「何を言うんだ。これは『健康』なんだぞ。我慢して食べろ」
和夫は自分に言い聞かせるように、サバの身を口に運んだ。しかし、心なしか胃が重い。さらに、テレビでは次の日には「ブロッコリーが最強」、その翌日には「納豆こそが究極」と、新しい『救世主』が次々と紹介される。
和夫はそのたびにスーパーへ走り、冷蔵庫は特定の食材でパンパンに膨れ上がった。一方で、それ以外の肉や果物を買う余裕はなくなり、献立の色彩はどんどん乏しくなっていった。
「お父さん、これ、本当に体にいいのかしら」 恵子が鏡を見ながら呟く。 「なんだか最近、肌が荒れてきた気がするし……お父さんも、顔色が土色よ?」
「……そんなはずはない。テレビで、あんなに数字を並べて説明していたんだぞ」 和夫は、自分自身の体から発せられる「重だるさ」というサインよりも、画面の中の「正解」を信じようと必死だった。
小林の「バランス・シート」
異変が決定的になったのは、週末のカフェだった。 「……佐藤さん、コーヒーの香りが負けてますよ。なんだか、お店の中が……」 常連の山崎さんが、鼻をひくつかせながら入ってきた。
「ああ、実はサバを積極的に摂っていましてね。健康のためですよ」 和夫が自慢げに答えると、たまたま非番で店に来ていた小林が、コーヒーカップを置いて静かに言った。
「佐藤さん。それは『情報の過剰投資』ですね」
「過剰投資?」
「はい。金融資産と同じです。一つの銘柄に全財産を注ぎ込むのは、投資ではなく博打です。健康も同じですよ。サバがどれだけ優れていても、そればかりでは栄養素が偏り、体というポートフォリオが崩れます」
小林はタブレットを取り出し、いくつかの医療ニュースサイトを表示させた。 「見てください。あの番組の数日後、別の専門家が『過剰な摂取は尿酸値を上げる可能性がある』と警告を出しています。情報は、多角的に見て初めて『真実』が見えるんです」
山崎さんも頷いた。 「和夫さん。テレビは『視聴率』のために、一番インパクトのある部分だけを切り取るの。私たちの体は、百人いれば百通り。一つの食材で魔法みたいに治るなら、お医者様はいらないわよ」
和夫は、自分の胃の不快感の正体をようやく理解した。 自分は、情報の「数字」と「演出」に踊らされ、自分の体が発する「美味しくない」「もういらない」という本能の声を無視していたのだ。
自分だけの「最適解」
その晩、和夫と恵子は冷蔵庫の中を整理した。 積み上がったサバ缶、しなびた大量のブロッコリー。
「……悪かった、恵子。俺、また『正解』を外に求めていたよ。デジタルも、整理も、健康も。自分で考えて、自分に合うかどうかを試さなきゃいけなかったのに」
和夫は、サバ缶を一缶だけ開け、それをたっぷりの大根おろしと、季節の青菜と一緒に食卓に並べた。 「今日はこれと、お肉も少し焼こう。色んなものを、少しずつ、美味しく食べよう」
一口食べた肉の香ばしさ、大根おろしの瑞々しさ。 「……美味しいわね、お父さん」 恵子の顔に、久しぶりに柔らかな赤みが戻った。和夫も、胃の腑がじんわりと温まるのを感じた。
「健康っていうのは、テレビの中に落ちてるものじゃないんだな。こうして恵子と、美味しいねって笑いながら食べる、この『納得感』の中にあったんだ」
和夫は、リビングのテレビの電源を消した。 静まり返った部屋に、窓の外から冬の虫の音が微かに聞こえてくる。
特定の情報に振り回され、一喜一憂する日々はもう終わりだ。 自分たちの体を知り、自分たちのペースで、多様な恵みを享受する。 それこそが、情報過多の時代を生き抜くための、佐藤家の新しい「防衛策」となった。
和夫は、開いたばかりのサバ缶の空き缶を、丁寧に洗った。 金属の冷たい感触が、今はもう、焦りではなく、穏やかな生活の一部として指先に馴染んでいた。
物語はいよいよ、真の完結へと向かいます。
第19話:【エピローグ】黄金色の夕暮れ〜佐藤家が選んだ、お金よりも大切なもの〜
第20話:【番外編】小林の日常〜若き年金職員が佐藤家から学んだ「幸せの計算式」〜
最後の一歩、どちらの物語を共に歩みますか?
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