第17話:【社会貢献の罠】「責任」を背負いすぎる善意

窓の外では、湿った雪が静かに街を白く染め変えていた。


「……また、回覧板か」


和夫は、玄関に置かれた分厚いバインダーを見て、知らず知らずのうちに重いため息を漏らした。中には、地域の「防犯パトロール実施計画」「高齢者見守り隊の当番表」、そして「自治会費徴収の進捗管理」と、数えきれないほどの書類が詰め込まれている。


一年前、公園掃除を始めた頃の和夫は、清々しい充実感に包まれていた。しかし、元・営業部長という経歴と、生真面目な性格、そして「デジタルが使えるシニア」という希少価値が仇となった。


「佐藤さんなら任せられる」「佐藤さんじゃないと困るんだ」


そんな甘い言葉に乗せられ、気づけば役職は五つに増えていた。和夫のGoogleカレンダーは、かつての現役時代さながらに、地域活動の予定で埋め尽くされている。


「お父さん、もう出かけるの? カフェの仕込み、まだ終わってないわよ」


恵子の声に、刺すような冷たさが混じっていた。 「分かっている。でも、自治会長の田中さん(同僚の田中とは別人の近所の長老)から、防災会議の資料を明日までに作ってくれって頼まれて……。俺がやらないと、あの人たちPCも使えないんだ」


「それ、お父さんの仕事じゃないでしょう? ボランティアって、自分が楽しめる範囲でするものじゃないの?」


恵子の言葉を背中で聞きながら、和夫は逃げるように家を出た。北風が頬を切り裂く。心臓が少し、嫌な早さで鳴っていた。


善意の搾取

公民館の会議室は、ストーブの灯油の匂いが充満していた。 和夫の目の前には、十歳以上年上の長老たちがふんぞり返っている。


「いやあ、佐藤君! この前の収支報告書、実に見事だったよ。やっぱり現役時代に鳴らした男は違うな。次回の夏祭り実行委員長も、君に頼みたいんだが」


田中会長が、和夫の肩を叩く。周囲からも「異議なし!」「佐藤さんなら安心だ」と、拍手が沸き起こる。


和夫の胃のあたりが、ギュッと絞られるように痛んだ。 本当は、断りたかった。週末は恵子とカフェの新メニューを試作し、ゆっくりと孫にビデオ通話をする時間に充てたい。しかし、期待に満ちた(あるいは、面倒を押し付けられて安堵した)老人たちの視線を前にすると、喉の奥で「NO」という言葉が凍りついた。


「……はあ。検討させていただきます」


「よし、決まりだ! 佐藤君、ついでにこの見守り名簿のデジタル化も、今週中に頼めるかな?」


帰り道、和夫の足取りは鉛のように重かった。 自分は何を守ろうとしているのか。資産を守り、家を守り、ようやく手に入れた自由な時間。それを今、実体のない「地域への責任感」という名の怪物に、一切合切食いつぶされている。


鏡の中の「定年」

その夜、和夫は書斎でPCに向かっていた。 指先が冷え、目が霞む。かつては数分で終わった作業が、今は数時間かかる。集中力が持たないのだ。


「……あれ?」


画面の数字が二重に見える。和夫は眼鏡を外し、目頭を押さえた。その時、ふと、PCの黒い画面に映った自分の顔を見て、和夫は戦慄した。


そこにいたのは、黄金時代を謳歌する「自由な隠居」ではない。 睡眠不足で隈ができ、責任感という鎖に縛られた、現役時代の最悪な時期の自分と同じ「顔」をしていた。


翌日。和夫は足が向かないまま、いつものベンチに座っている山崎さんに会いに行った。


「あら、和夫さん。随分と使い込まれた雑巾みたいな顔してるわね」


山崎さんは、保温ボトルから温かいほうじ茶を注いでくれた。 「山崎さん。私、何のために引退したんでしょう。毎日が、誰かのための『締め切り』に追われている」


「和夫さん。あなた、まだ『肩書き』を欲しがっているんじゃないの?」 山崎さんの言葉は、真冬の湖のように冷たく、透き通っていた。


「みんなに頼りにされることで、自分がまだ社会に必要な人間だって証明しようとしてる。でもね、ボランティアって、自分が幸せで、その余剰分を分け与えるものよ。自分が削れて、家族が泣いているなら、それはただの『自己犠牲という名のエゴ』だわ」


山崎さんは、自分の空っぽの手のひらを見せた。 「『NO』と言うことは、誰かを拒絶することじゃない。自分の『大切なもの』を守るという、勇気ある決断なの。和夫さん、あなたの黄金時代は、誰に支配されているの?」


勇気ある「撤退」

翌週の自治会定例会。和夫は、鞄の中に一通の封筒を忍ばせていた。


「佐藤君、例の名簿はできたかね?」 田中会長が、いつものように当然の顔で聞いてくる。


和夫は、震える手で封筒を差し出した。 「……辞任届です」


会場が静まり返る。「えっ、どういうことだ?」「病気か?」と、戸惑いの声が上がる。


「いえ、健康です。ただ、私は『責任』という言葉を履き違えていました。私は、妻との時間を、そして自分の健康を守る責任を、まず果たすべきだと気づきました。これ以上の役職は、私には重すぎます」


「しかし佐藤君、君が抜けると困るんだ。デジタルのことも、誰が……」


「それは、皆で少しずつ学んでいくべきことです。マニュアルは残しました。操作法も教えます。でも、私の人生のハンドルは、私に戻させていただきます」


和夫の声は、かつてのどのプレゼンよりも、力強く、清々しかった。


黄金色の午後

公民館を出ると、雪は止み、雲の間から眩しい太陽が顔を出していた。 冷たい空気は変わらないが、背負っていた見えない荷物がなくなっただけで、世界はこんなにも広く、美しく見える。


「ただいま、恵子」


家に戻ると、恵子が少し驚いたように和夫を見た。 「あら、随分と早いのね。何かあったの?」


「いや。……メニューの試作、今からやろう。俺、最高のコーヒーを淹れるよ」


二人は並んで、キッチンに立った。 豆を挽く音、沸騰するお湯の音、そして恵子の穏やかな笑い声。 和夫は気づいた。本当の社会貢献とは、まずは自分が幸せで、健やかに生きること。そして、その余裕の中で、無理のない範囲で隣人と手を取り合うことなのだ。


「お父さん、なんだか顔色が良くなったわね」


「そうか?……ああ、そうかもしれないな」


和夫は、窓の外に広がる夕暮れを見た。 空は、燃えるような黄金色に染まっていた。 もう、何にも追われる必要はない。自分のペースで、自分の足で、この美しき日々を歩んでいく。 それこそが、和夫が辿り着いた、本当の資産運用だった。


物語は、いよいよフィナーレへと向かいます。


第18話:【エピローグ】黄金色の夕暮れ〜佐藤家が選んだ、お金よりも大切なもの〜


第19話:【番外編】小林の日常〜若き年金職員が佐藤家から学んだ「幸せの計算式」〜


最後の一歩、どちらの物語を共に歩みますか?


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