第16話:【住宅維持の罠】「リフォーム」の甘い言葉

午後の柔らかな日差しが、佐藤家のリビングに長閑な影を落としていた。和夫は「週末カフェ」で出す新しい豆の選定に没頭し、恵子は庭の枯れ木を整えていた。その静寂を破ったのは、低く、どこか粘り気のある呼び鈴の音だった。


「はい、どちら様?」


恵子がインターホン越しに答えると、画面には、不自然なほど白い歯を見せて微笑む若い男が映っていた。作業着は真新しく、胸元には『近隣住宅診断センター・村上』という名札が揺れている。


「奥様、突然すみません。今、お向かいの工事で屋根に登らせていただいているんですが……お宅の屋根の漆喰(しっくい)が、かなり剥がれ落ちているのが見えまして。これ、次の大雨で雨漏りしますよ。今なら無料で点検しますけど」


恵子の顔が強張った。築30年。生前整理で家の中は片付いたが、外壁や屋根のことは「まだ大丈夫だろう」と後回しにしていた。そこへ和夫が玄関に出てくる。


「屋根が? 本当か?」


「ええ。近くで見ると相当ひどいです。あ、佐藤さんですね? 実は、今週中に契約いただければ『地域モニター割引』で、通常の半額で施工できるんですよ。放っておくと、屋根全体を葺き替えなきゃいけなくなって、五百万は飛びますよ」


村上の声は、穏やかながらも、確実に和夫の不安を煽る「棘」を含んでいた。


忍び寄る「崩壊」のイメージ

「五百万……」


和夫の脳裏に、せっかく最適化した家計が瓦解する音が響いた。デジタル化に挑み、インフレ対策を講じ、直樹への援助を断ってまで守り抜いた「老後資金」。それが、屋根という目に見えない場所から漏れ出していく恐怖。


「お父さん、どうしましょう。雨漏りして家が傷んだら、それこそ大変よ」


恵子の声が震えている。和夫は村上の案内で庭に出た。 「ほら、あそこ。瓦が浮いているのが分かりますか? あれですよ。今すぐ処置しないと、中の木材が腐ります」


村上が指差す先は、逆光でよく見えない。しかし、和夫にはそれが、家全体が悲鳴を上げている印のように思えてきた。


「今すぐ見積もりを出しますね。……うん、今なら特別に、120万円でいけます。本来250万は下らないんですが。今日、この場でサインいただければ、明朝から職人を手配しますよ」


120万。高い、が、500万に比べれば「安い」と感じてしまう。和夫はペンを手に取ろうとした。営業部長時代、決断の遅い部下を叱咤してきた自分だ。即断即決こそが、危機を回避する唯一の道だと。


だが、その時。和夫のポケットの中でスマホが震えた。 設定したばかりの家計管理アプリのアラートではない。山崎さんからの「お裾分けがあるわよ」という気楽なメッセージだった。その画面の明るさが、和夫の冷静さをわずかに引き戻した。


「……ちょっと待ってくれ。一晩考えさせてくれ」


「佐藤さん、明日の予報は雨ですよ? 今サインしないと、職人の枠が埋まっちゃう」


村上の顔から、営業スマイルがわずかに剥がれ落ち、冷酷な「狩人」の目が見えた。和夫はその違和感を見逃さなかった。


「街の主治医」の診断

翌日、和夫は村上に返事をする前に、ある場所へ電話をかけた。小林から「家のメンテナンスこそ、信頼できる『主治医』を見つけておくべきだ」と助言され、紹介されていた地元の工務店だ。


やってきたのは、村上とは正反対の、日に焼けた寡黙なベテラン職人、坂本だった。彼は長い梯子をかけると、無言で屋根に登り、十分ほどかけて一通り確認した。


「……佐藤さん。降りてきましたよ」


和夫と恵子は、祈るような気持ちで坂本を見上げた。 「やっぱり、ひどいんでしょうか。120万で直るなら、今すぐ……」


坂本は、作業着の汚れを払いながら、ぶっきらぼうに言った。 「漆喰? 確かに少し欠けてるがね、雨漏りするようなもんじゃない。瓦の浮きも、ありゃあ影の加減でそう見えただけだ。今すぐ直さなきゃいけないとこなんて、どこにもないよ。どうしても気になるなら、数年後の外壁塗装の時に一緒にやればいい。三万もありゃ、補修できるレベルだ」


和夫は、膝から崩れ落ちそうになった。 「三万……。あいつは、120万だと言ったんだぞ」


「典型的な『点検商法』だね。不安を煽って、いらない工事を押し付ける。佐藤さん、家を長持ちさせるのは、高い金じゃない。定期的にこうして、信頼できる人間に見てもらう『計画性』だよ。焦ってハンコを突くのが、一番家を壊すんだ」


守るべきは「住まい」と「心の平穏」

夕方、再び村上がやってきた。「職人の手配ができましたよ」と、強引に契約を迫るために。 しかし、和夫の表情は、昨日とは別人のように落ち着いていた。


「村上さん。屋根の件は、地元のなじみの工務店に見てもらった。全く問題ないそうだ」


村上の顔が、目に見えて引き攣った。 「な、なじみ? でも、あんなにひどかったんですよ! 私たちはプロの目で……」


「俺も、プロの営業だったからね」和夫は、静かに、しかし断固とした口調で言った。「客の不安を食い物にするようなやり方は、プロとは呼ばない。二度と、うちの敷居は跨がないでくれ」


村上は毒づきながら、逃げるように立ち去った。その背中を見送る和夫の横で、恵子が深いため息をついた。


「お父さん、危なかったわね……。私、怖くて、つい120万なら安いって思っちゃった」


「俺もだよ。でもな、恵子。生前整理で物を減らし、デジタルで収支を見えるようにしてきた。だからこそ、120万という数字の重みが、最後には分かったんだ。これは、俺たちの老後の大切な血肉だ。それを、得体の知れない不安に差し出すわけにはいかない」


和夫は、坂本からもらった「今後のメンテナンス計画書」をテーブルに広げた。 十年後に外壁、十五年後に給湯器。いつ、いくら必要なのか。それが可視化されたことで、昨日のような得体の知れない恐怖は消えていた。


「お金を守ることは、家を守ること。そして、俺たちの『心の平穏』を守ることなんだな」


窓の外では、坂本が言った通り、雨が降り始めた。 屋根を叩く雨音は、もう不安の調べではない。佐藤家の安泰を祝福する、穏やかなリズムとして、和夫の耳に届いていた。


物語はいよいよ、和夫が辿り着く「幸福の形」へと向かいます。


第17話:【最終決戦】インフレ、増税、老後不安……和夫が見つけた「本当の豊かさ」


第18話:【エピローグ】黄金色の夕暮れ〜佐藤家が選んだ、お金よりも大切なもの〜


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