第14話:【家族の罠】「子供への援助」で共倒れ

窓の外では、鋭い北風が街路樹の枝を揺らし、乾燥した冬の空気が肺の奥まで冷たく染み渡る。


佐藤家のリビングには、重苦しい沈黙が横たわっていた。テーブルを挟んで和夫と恵子の向かいに座っているのは、長男の直樹だ。都内のIT企業で働く30代の息子は、かつての快活さを失い、どこか追い詰められたような顔で、手元のコーヒーカップを見つめている。


「……父さん、母さん。本当に、急にこんな話をして申し訳ないと思ってる」


直樹の声はかすれていた。 「でも、奏太(そうた)の中学受験が本格的になってきて……塾の費用だけで月10万、夏期講習になればその数倍。それに、今のマンションの更新料と住宅ローンの金利上昇が重なって。恥ずかしい話だけど、貯金が底をつきそうなんだ」


和夫は、膝の上で拳を握りしめた。 「直樹。お前、こないだ昇進したばかりじゃなかったのか?」


「役職手当なんて、物価高と増税で全部消えたよ」直樹が顔を上げる。その目には、切実な、どこか甘えたような色が混じっていた。「もし、父さんの退職金の中から、少しだけ……『孫への教育資金贈与』っていう形で援助してもらえないかな。非課税になるって聞いたし、父さんたちにだってメリットがあるだろう?」


「メリット」という言葉が、和夫の耳に嫌な音を立てて響いた。


親心という名の「崖っぷち」

直樹が帰った後、和夫は書斎で預金通帳を開いた。 生前整理を終え、デジタル化にも挑み、インフレ対策として資産の分散も始めた。ようやく自分たちの「老後の城」の石垣を固めたつもりだった。


「お父さん、どうするの?」 恵子が、不安そうな顔で部屋に入ってきた。 「直樹のあんな顔、初めて見たわ。奏太の将来がかかっていると思うと、少しぐらいなら……って思っちゃうけど」


「……五百万、だそうだ。直樹が求めている額は」


和夫は溜息をついた。 「五百万あれば、確かに奏太をいい中学に入れられるかもしれない。だが恵子、これは俺たちの二十年分の『安心』だ。もし今、これを渡して、この先さらに物価が上がったら? 俺たちに介護が必要になったら? その時、直樹に『あの時の金を返してくれ』と言えるか?」


恵子は、黙って窓の外の闇を見つめた。 親というのは、子供が苦しんでいる時に背中を向けるのが何よりも辛い生き物だ。自分の食事を一食抜いてでも、子供に腹一杯食べさせたい。その本能が、理性を揺さぶる。


翌日、和夫は一人、年金事務所の小林を訪ねた。


「佐藤さん、今日はいつになく険しい顔ですね」 小林は、温かいお茶を差し出しながら、和夫の葛藤を静かに聞き届けた。


「小林君。親として、孫の未来を潰してまで自分の金を守るのは、強欲なんだろうか」


小林は、眼鏡の奥の瞳を和夫に向け、ゆっくりと首を振った。 「逆ですよ、佐藤さん。親の最大の、そして最後の責任は、『最後まで子供に頼らず、自立して生き抜く姿』を見せることです」


小林はタブレットで、一つのシミュレーションを見せた。 「もし今、五百万円を援助すれば、佐藤さんの資産寿命は七年縮まります。八十代半ばで底をつく計算です。その時、息子さんに『お父さんたちの生活費を月十万仕送りしてくれ』と言えますか? 住宅ローンと教育費に追われる今の彼に、そんな余裕があるでしょうか」


和夫は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「援助は、美談に見えて、実は『共倒れへの招待状』になることもあるんです。佐藤さんが破綻すれば、結局一番苦しむのは息子さんなんですよ」


焼肉の香りと、父の宣告

数日後、和夫は直樹を近所の焼肉屋に呼び出した。 ジュウジュウと音を立てる肉の脂が跳ね、香ばしい匂いが立ち込める。かつて直樹が就職を決めた時に、二人で祝杯を挙げた店だ。


「……父さん、考えてくれたか?」 直樹が期待を込めた目で和夫を見る。


和夫は、ビールのグラスを置き、息子を真っ直ぐに見据えた。 「直樹。援助は、できない」


直樹の顔から、さっと血の気が引いた。 「……どうして? あんなに貯金があるのに、孫が可愛いと思わないのか?」


「可愛いからこそだ、直樹」 和夫の声には、かつての部長時代のような威厳と、父親としての深い慈愛が同居していた。 「俺と母さんは、死ぬまでお前の世話にはならないと決めた。自分の足で立ち、自分の金で最後まで生きる。それが、お前という家族に残せる、最大の遺産だと思っている」


和夫は、小林に作ってもらったシミュレーションの紙をテーブルに置いた。 「これを見ろ。今の日本で、老後の資金を削るということがどれだけのリスクか。もし俺たちが倒れたら、お前は奏太の学費を削って俺たちの介護費を出すことになる。そんな不幸な連鎖を、俺は作らせたくない」


直樹は、渡された紙を食い入るように見つめた。数字の羅列が、残酷な現実を突きつけていた。


「直樹。お前はもう、守られる側じゃない。守る側なんだ。奏太の学費が足りないなら、まずは家計を徹底的に見直せ。身の丈に合わない教育なら、公立という選択肢だってある。見栄を捨てて、家族で戦え。それが『自立』だ」


直樹の肩が、微かに震えた。やがて、彼は深く頭を下げた。 「……ごめん、父さん。俺、甘えてた。父さんたちが『持ってる』ことに、どこか依存してたんだと思う。自分たちで、もう一度やり直してみるよ」


軽やかな決別

店を出ると、夜風は冷たかったが、和夫の胸は不思議と晴れやかだった。 帰宅すると、恵子が心配そうに待っていた。


「お父さん、直樹は?」


「ああ。分かってくれたよ」 和夫は、冷えた手をさすりながら笑った。 「恵子、明日からまた、俺たちの週末カフェのメニュー、もっと真剣に考えよう。一円でも多く自分たちで稼いで、一円でも長く自立して楽しむ。それが、あいつらへの一番の応援になるんだからな」


恵子は、和夫の顔を見て、安堵の溜息をついた。 「そうね。孫にお小遣いをあげるのは、私たちの楽しみ。でも、私たちの人生を差し出すのは、愛じゃないわね」


二人は、整理し終えた風通しの良いリビングで、温かいお茶を飲んだ。 子供を愛しているからこそ、突き放す。 その痛みを知る者だけが、本当の「黄金時代」の住人になれるのだと、和夫は確信していた。


物語は、いよいよ佐藤家を揺さぶる「最大の誘惑」と「最大の脅威」へと向かいます。


第15話:【見栄の代償】田中が誘う「豪華客船クルーズ」と老後破綻の足音


第16話:【謎の訪問者】村上が仕掛ける「還付金詐欺」との心理戦


第17話:【最終決戦】インフレ、増税、老後不安……和夫が見つけた「本当の豊かさ」


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