第13話:【生前整理の罠】「思い出の品」が重荷になる

窓の外では、湿り気を帯びた冬の雨が、庭の山茶花の赤い花びらを叩き落としていた。


「……っ、重いわね」


恵子は、二階の納戸の奥から埃を被った段ボール箱を引き出した。ずっしりとした重みが両腕にかかり、古びた紙の匂いと、カビの混じった独特の停滞した空気が鼻を突く。箱を開けると、そこには昭和の香りが漂う百科事典のセットと、和夫が昔使っていた、今はもう動かないフィルムカメラ、そして色褪せた子供たちの工作がぎっしりと詰まっていた。


「お母さん、まだそんなことやってるのか。危ないなあ」


一階から、和夫の声が響く。和夫は最近、デジタル化に目覚めてスマホをいじってばかりだが、家の「物理的な蓄積」については見て見ぬふりを決め込んでいた。


「お父さん、他人事じゃないわよ。この箱一つ動かすのだって、今の私には一仕事なんだから」


恵子は額の汗を拭い、薄暗い部屋を見渡した。壁一面のクローゼット、足元に積み上げられた箱、そして「いつか使う」と信じて取っておいた来客用の布団の山。かつて家族四人で賑やかに暮らしていた頃、これらはすべて「豊かさ」の証だった。しかし、子供たちが独立し、六十代を超えた今、それらは家という器を少しずつ侵食する「澱(おり)」のように、恵子の心を重く沈ませていた。


山崎さんの「軽やかな家」

その日の午後、恵子は気分転換を兼ねて、山崎さんの自宅を訪ねた。 山崎さんの家は、佐藤家と同じ築年数のはずだが、玄関を一歩くぐった瞬間に感じる空気が全く違っていた。


「あら恵子さん、いらっしゃい。ちょうどハーブティーを入れたところよ」


通されたリビングには、必要最小限の家具しか置かれていなかった。窓から差し込む冬の光が、磨き抜かれたフローリングに反射して、部屋全体が呼吸しているように明るい。


「山崎さん、お宅に来るたびに思うけど……本当に物が少ないわね。寂しくないの?」


山崎さんは、レモングラスの香りが立つカップを差し出し、快活に笑った。 「寂しいどころか、毎日が身軽で仕方ないわ。夫が亡くなった後、思い切って『トラック三台分』捨てたのよ。あの時は泣きながら捨てたけど、空いたスペースに風が通った瞬間、なんだか自分まで新しくなった気がして」


「トラック三台……! でも、思い出の品とか、子供たちに残してあげたいものとか、あったでしょう?」


「恵子さん。厳しいことを言うようだけど、私たちの『思い出』は、子供たちにとっては『重荷』でしかないのよ」 山崎さんの言葉は、優しく、しかし鋭く恵子の胸を突いた。 「私が死んだ後、山のような遺品を見て、あの子たちが『お母さんは片付けもできない人だった』って溜息をつくのを想像したら、居ても立ってもいられなくなっちゃって。整理っていうのはね、残された人への最後のラブレターなのよ」


「いつか」という名の呪縛

家に戻った恵子は、再び納戸の前に立った。 夕食後、和夫を無理やり二階へ連れて行く。


「お父さん。私たち、今ここで決めましょう。この箱、どうするの?」


和夫は、百科事典の一冊を手に取り、懐かしそうにページをめくった。 「これは、俺が初めてのボーナスで買ったやつだ。直樹の受験にも役に立った。それにこのカメラ、直樹の運動会を撮った思い出が詰まってるんだぞ。捨てるなんて……」


「直樹は今、スマホで全部調べてるわよ。カメラだって、もっと高性能なデジカメを持ってる。お父さん、これ、直樹が『欲しい』って言うと思う?」


和夫は黙り込んだ。図星だった。先日、直樹が帰省した際に「この古いカメラ、持っていくか?」と聞いたとき、息子は困ったような顔をして「今は現像するのも大変だし、飾る場所もないからいいよ」と断ったのだ。


「『いつか』は来ないのよ、お父さん。私たちが元気で、自分の意志で捨てられるうちに整理しないと、ここはいつかゴミ屋敷になって、私たちの暮らしを圧迫するわ」


恵子の声には、悲痛な決意がこもっていた。 「物を減らすのは、過去を捨てることじゃない。今の私たちの生活を、もっと風通し良くするための『投資』なの」


和夫は、カメラをそっと箱に戻した。革ケースのひび割れた感触が、指先に残る。 「……そうだな。俺も、デジタル化を学んで分かったよ。大事なのは形じゃなくて、その中にある記憶なんだな。写真はスキャンしてデータにすればいい。現物は……感謝して手放そう」


風が通る家

週末。佐藤家の前には、ゴミ袋の山と、リサイクル業者のトラックが停まっていた。 和夫と恵子は、二人で協力して、大きな家具や古い布団を運び出した。


「よいしょ……腰に来るわね」 「無理するな。俺が持つ」


二人の間に、久しぶりに活気のある会話が弾んだ。重い荷物を手放すたびに、家の中が、そして心の中が軽くなっていく。 最後に残ったのは、子供たちが幼い頃に描いた、数枚の似顔絵だった。


「これだけは、デジタル化しても捨てられないわね」 恵子が微笑むと、和夫も頷いた。 「ああ。全部捨てるのが整理じゃない。本当に大切なものだけを選び抜くのが、整理なんだな」


作業を終えた夕暮れ。 納戸だった部屋には、何もない空間が広がっていた。窓を開けると、雨上がりの澄んだ冷気が部屋を吹き抜け、古いカビの匂いを一掃していった。


「お父さん、見て。こんなに広かったのね、この家」


「ああ。これなら、春になったら孫たちが遊びに来ても、思い切り走り回れるな」


和夫は、恵子の肩に手を置いた。 物の重圧から解放された家は、まるで新しい生命を吹き込まれたかのように静謐で、温かかった。不要なものを手放す。それは、これから始まる「黄金時代」を、より身軽に、より深く楽しむための、大切な儀式だったのだ。


夕闇が迫る中、二人は並んで、風通しの良くなったリビングで新しいお茶を淹れた。その香りは、以前よりもずっと、鮮やかに感じられた。


次は、佐藤家の資産を狙う「現代の影」が動き出します。


第14話:【謎の訪問者】村上が仕掛ける「還付金詐欺」との心理戦


第15話:【甘える子世代】直樹から届いた「孫の中学受験」への援助依頼


第16話:【見栄の代償】田中が誘う「豪華客船クルーズ」と老後破綻の足音


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