第12話:【デジタル格差の罠】「現金主義」で損をする

窓の外では、冬の気配を含んだ冷たい風が、公園の銀杏の葉を激しく舞い上がらせていた。


「チッ……またこれか」


佐藤和夫は、リビングのソファで唸り声を上げた。手元の郵便受けから取り出したばかりの、電気料金の明細。そこには無情にも「紙の発行手数料:110円」の文字が刻まれている。たかが百円、されど百円だ。かつて中堅メーカーの営業部長として「コスト意識を持て!」と部下を叱咤していた自分を思い出し、喉の奥が苦くなった。


「お父さん、まだ格闘してるの?」 恵子がキッチンから顔を出した。彼女の手元には、最新型のスマートフォン。慣れた手つきで画面をスワイプし、近所のスーパーの「アプリ限定クーポン」を表示させている。


「……恵子、お前はいいよな。そんな風にヒョイヒョイと指を動かして。俺は、この画面の文字を見ると、どうも目が滑るんだ。それに、なんだか自分の財布の中身を、見ず知らずの機械に覗かれているようで、落ち着かない」


和夫は、分厚い革の長財布をぎゅっと握りしめた。使い込まれた牛革の匂い、千円札を数える時の指先の摩擦、小銭が触れ合うジャラリという重み。それこそが、自分が働いて得た「富」の証だと信じて疑わなかった。


窓口の「冷たさ」と、若者の「光」

翌日、和夫は意を決して、駅前の銀行の窓口へ向かった。目的は、定期預金の継続手続きだ。 しかし、自動ドアをくぐった瞬間、和夫は立ちすくんだ。かつてはズラリと並んでいた対面カウンターの半分が、パーティションで閉じられている。代わりに鎮座しているのは、無機質なタブレット端末が並んだ「セルフコーナー」だ。


「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」 案内係の若い女性が近づいてくる。


「ああ、定期の書き換えをね。担当の方にお願いしたいんだが」


「恐れ入ります。現在、窓口での手続きは予約制となっておりまして、本日ですと二時間待ちとなります。あちらのアプリからお手続きいただければ、手数料もかからず、今すぐ完了いたしますが……」


和夫は、彼女が差し出したパンフレットを見た。「アプリで完結!」「来店不要で金利優遇!」という文字が、まるで見知らぬ国の言葉のように躍っている。


「……いい。待たせてもらうよ」


結局、和夫は硬い椅子に二時間座り、窓口で千円を超える「事務手数料」を支払って手続きを終えた。帰りに寄ったドラッグストアでも、追い打ちをかけるような出来事が待っていた。


「お会計、1,280円です。ポイントカードは……あ、すみません。そちらの紙のカードは先月で終了しまして。今はアプリだけなんですよ」


レジの店員は申し訳なさそうに言った。背後には行列ができている。焦った和夫は、小銭をトレイにぶちまけた。指が震えて、十円玉が一枚、床を転がっていく。


「……いいよ、ポイントは。もう、結構だ」


逃げるように店を出た和夫の背中に、冷たい冬の風が吹きつけた。自分は、世の中から取り残されている。現金という盾を持って戦っているつもりだったが、その盾はいつの間にか重く、錆びついた「お荷物」に成り下がっていた。


小林の「武器」と、山崎さんの「自由」

「佐藤さん、それは『意地』という名のコストですよ」


年金事務所のいつもの席で、小林はタブレットの画面を見せながら静かに言った。画面には、和夫がこの一年間で「紙」や「窓口」を選んだことで支払った手数料と、受け取り損ねたポイントの試算グラフが表示されていた。


「これを見てください。年間で、美味しいディナーに行けるくらいの金額が、単に『デジタルを避けた』というだけで消えています。インフレで物価が上がっている今、このロスは致命的です」


「分かっている……分かっているんだ。だが、小林君。スマホの決済なんて、もし落としたら? もしウイルスに感染して、貯金が全部盗まれたらと思えば、夜も眠れない」


和夫の声は、絞り出すようだった。 そこへ、手続きを終えた山崎さんが通りかかった。彼女は最新のスマートウォッチを軽く叩き、和夫にウインクをした。


「和夫さん、まだ震えてるの? 私なんて、この時計一つで電車も乗るし、お豆腐一丁も買うわよ」


「山崎さん……怖くないんですか? 目に見えないお金なんて」


「怖いからこそ、学ぶのよ」山崎さんは、和夫の隣に腰を下ろした。「私だって最初は、画面を触るだけで爆発するんじゃないかって思ってたわ。でもね、使ってみたら分かったの。デジタルは『泥棒』じゃなくて、私たちの体力を守ってくれる『執事』なんだって」


山崎さんは、自分のスマホを開き、家計管理アプリを見せた。 「見て。何にお金を使ったか、全部自動で記録される。わざわざ家計簿をつける手間もいらない。浮いた時間で、私は好きな本を読んだり、ボランティアに行ったりできる。これこそ、老後の『自由』だと思わない?」


小林が言葉を添える。 「佐藤さん。セキュリティが不安なら、まずは『少額』から始めればいいんです。銀行口座と直結させず、使う分だけチャージする。二段階認証を覚える。それは、玄関に鍵をかけるのと同じ、新しい時代の『作法』なんです」


「指の震え」の向こう側

その日の夜、和夫はダイニングテーブルで、恵子の前に座った。 「……恵子。教えてくれないか。その、アプリの入れ方っていうやつを」


恵子は、驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに微笑んだ。 「あら、お父さんがそんなこと言うなんて。天変地異でも起きるかしら」


「茶化すな。……今日、気づいたんだ。俺が守ろうとしていたのは『現金』じゃなくて、単なる『古いプライド』だったんだな、って」


和夫は、恵子の指導のもと、震える指でスマートフォンを操作した。 アプリをダウンロードする。「インストール」という文字に、一瞬だけ指が止まる。 「大丈夫、そこを押して。暗証番号は、誰にも教えちゃダメよ」


設定が終わったのは、一時間後だった。 初めてアプリで電気代の支払いを済ませ、ポイントが「1」と表示された瞬間。和夫の胸の中に、不思議な感覚が広がった。


それは、営業マン時代、初めて大きな契約を勝ち取った時の高揚感に似ていた。 「……できた。俺にも、できたぞ」


「おめでとう、お父さん。これで今日から、一回110円の損をしなくて済むわね」


和夫は、自分の指を見つめた。まだ少し震えている。だが、それは恐怖の震えではなく、新しい世界に足を踏み入れた時の、心地よい武者震いだった。


数日後の週末。和夫は自分のカフェのレジ横に、小さな「QRコード決済」のプレートを置いた。 「いらっしゃい。……ああ、それ? 今日から使えるようになったんですよ」


常連客の驚く顔を見て、和夫は誇らしげに胸を張った。 デジタルは、自分を疎外する壁ではなかった。自分を、そして愛する家族の資産を守るための、最強の「武器」なのだ。


「次は、マイナンバーカードの活用法かな……」 和夫は、もう二度と「機械に弱いから」と逃げることはしないと心に決めた。銀杏の葉が舞う冷たい空の下、和夫の心には、新しい知識を吸収する、熱い活力が宿っていた。


次は、佐藤家のどのような課題を描きましょうか?


第13話:【生前整理の嵐】恵子が直面する「思い出とゴミ」の境界線


第14話:【謎の訪問者】村上が仕掛ける「還付金詐欺」との心理戦


第15話:【甘える子世代】直樹から届いた「孫の中学受験」への援助依頼

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