第11話:【インフレの罠】「貯金だけ」がリスクになる日

「また上がってるのか……」


和夫は、スーパー『サンシャイン』の青果コーナーで立ち尽くしていた。手に取ったのは、以前なら百円でお釣りが来たはずの小ぶりなブロッコリーだ。値札には「248円」という、目を疑うような数字が躍っている。


晩秋の冷気が自動ドアから入り込み、和夫の首筋を撫でた。かつて営業部長として数千万単位の予算を動かしていた頃なら、百円や二百円の差など誤差にも感じなかっただろう。しかし、今の和夫は「公園清掃員」の給与と、細々と営む「週末カフェ」の売上、そして将来の柱となる年金で生きる男だ。


カゴの中には、恵子に頼まれた特売の卵と、和夫の唯一の楽しみであるインスタントコーヒー。だが、そのどちらも数ヶ月前より確実に「痩せて」見える。パッケージの容量は減り、価格は据え置き、あるいは上昇。和夫の胸を締め付けるのは、単なる出費の増加ではない。通帳に刻まれた「数字」が、目に見えない何かに、まるで真夏の氷のように少しずつ、だが確実に溶かされているという恐怖だった。


忍び寄る「透明な泥棒」

その日の夜、和夫は書斎で古い電卓を叩いていた。家計の固定費削減には成功した。スマホは格安プラン、保険も見直した。完璧なはずだった。しかし、支出のグラフは右肩上がりを描いている。


「お父さん、根を詰めすぎよ。お茶入れたわ」


恵子が、湯気の立つ茶碗を運んできた。ほうじ茶の香ばしい香りが、殺伐とした和夫の心をわずかに解きほぐす。


「恵子、見てくれ。この半年で食費と光熱費が二割も上がっている。節約はしているはずなのに、貯金が削られていくんだ。まるでバケツに小さな穴が空いているみたいだ」


和夫の声は、微かに震えていた。 「私たちは、この数字を守るために必死に働いてきたんだ。退職金だって、一円も減らしたくない。なのに……」


恵子は、和夫の隣に座り、穏やかに、しかし芯のある声で言った。 「数字を守ることが、価値を守ることとは限らないんじゃないかしら。小林さんが言ってたじゃない。『インフレは透明な泥棒だ』って」


翌週、和夫は逃げるように年金事務所へ向かった。相談窓口には、いつものようにクールな眼鏡を光らせた小林が座っていた。


「佐藤さん、お久しぶりです。少しお痩せになりましたか?」


「小林君……実は、夜も眠れないんだ。通帳の数字が減っていくのが怖くて。せっかく削った固定費が、物価高に飲み込まれていく」


小林は、タブレットを操作しながら静かに頷いた。 「それは『貨幣錯覚』かもしれませんね。佐藤さんは、円という通貨の『額面』を信じておられる。でも、百円玉一枚で買えるリンゴの量が半分になったら、その百円玉の価値は半分になったということです。貯金だけに固執するのは、沈みゆく船の甲板で、重い金塊を抱えて離さないようなものですよ」


小林の言葉は、元営業部長のプライドに鋭く突き刺さった。 「じゃあ、どうすればいいんだ? 株か? 投資か? 田中のやつみたいに、怪しい儲け話に乗って大損するのは御免だぞ」


「極端に走る必要はありません」小林は微笑んだ。「大事なのは、資産の『置き場所』を分散することです。現金というカゴに全ての卵を盛らないこと。物価と一緒に価値が上がるもの……例えば、金や不動産といった実物資産、あるいは物価連動型の金融商品を『少しだけ』混ぜるんです」


現実の襲来と、父のプライド

帰り道、和夫は駅前の喫茶店で、偶然にも元同僚の田中に出くわした。 田中は相変わらず、型落ちだが仕立てのいいスーツを着込み、周囲に聞こえるような声で電話をしていた。


「……ああ、あのタワマン投資? あれは時期が悪かったな。今は外貨だよ、外貨。和夫くん! 久しぶりじゃないか」


和夫が断る間もなく、田中は対面に座り込んだ。 「聞いたよ、公園で掃除してるんだって? 感心だねえ。僕はね、最近、海外の未公開株に手を出してね。インフレなんて関係ない、ドルで稼げばいいんだよ」


田中の話は、どこか浮ついていた。羽振りが良さそうに見えて、その指先はわずかに震え、コーヒーカップを置く音が妙に高い。彼もまた、焦っているのだ。自分と同じように、目減りする資産と、消えゆく現役時代の幻影に追い詰められている。


その日の夕方、長男の直樹から電話があった。 「……父さん、急にごめん。実はさ、孫の小学校の入学準備とか、住宅ローンの更新が重なっちゃって。少しだけでいいんだ、来月まで融通してもらえないかな」


受話器を握る和夫の手に、力がこもる。 かつての和夫なら「バカモン、自分でどうにかしろ」と一喝しただろう。だが、今の彼にはその言葉が出なかった。直樹の世代は、給料が上がらない中で自分たち以上のインフレに直面している。


「直樹……。分かった、少し考えておく」


電話を切った後、和夫は暗いリビングで一人、窓の外を眺めた。 街の灯りは明るいのに、自分の足元だけが泥沼のように沈んでいく感覚。通帳を守りたい。でも、家族も守りたい。数字を守ることに固執するあまり、自分は一番大切な「今」を失っていないか?


「実像」への一歩

週末。和夫のカフェに、山崎さんがやってきた。 彼女は相変わらず、鮮やかなスカーフを巻いて、背筋を伸ばしている。


「和夫さん、顔色が悪いわよ。ブロッコリーの値段で悩んでる顔ね?」


「山崎さん……。どうしてそんなに平然としていられるんですか。世の中、何もかも値上がりして、老後の計算が狂ってしまった」


山崎さんは、和夫が淹れたコーヒーを一口すすり、ふう、と息をついた。 「私ね、夫が死んだ時に決めたの。通帳の数字を墓場まで持っていくのはやめようって。その代わりに、家を小さくして、残ったお金で『将来も腐らない価値』に変えたわ。例えば、この丈夫な靴。十万したけど、あと二十年は履ける。それから、信頼できる友人との繋がり。これはインフレじゃ減らないわ」


和夫は、山崎さんの履き古された、しかし美しく磨かれた革靴を見た。 「腐らない、価値……」


「和夫さん、あなたは『数字』という実体のない幽霊と戦っているのよ。一度、その数字を何に変えたいのか、考え直してみたら?」


その夜、和夫は恵子をダイニングテーブルに呼んだ。 広げたのは、家計簿ではなく、これからの「人生の地図」だった。


「恵子。俺は、通帳の数字が減るのを、自分の命が削られるように感じていた。でも、それは間違いだった」


和夫は、震える指でスマホを操作した。小林に教わったネット証券の画面だ。 「まずは、この貯金の数パーセントだけ、インフレに強いと言われる全世界の資産に分散してみようと思う。勉強代だと思って。それから、直樹にはお金を『貸す』のではなく、孫の教育資金として『贈与』しよう。相続税を考えれば、今動かすのが一番価値が高い」


恵子は、驚いたように和夫を見た後、ふっと微笑んだ。 「お父さん、やっと指の震えが止まったわね」


和夫は自分の手を見た。確かに、電卓を叩いていた時の冷たい震えは消えていた。 「守るだけじゃ、守りきれないんだな。少しだけ風を通さないと、お金も心も腐ってしまう」


外では、冷たい風が吹いている。明日もまた、何かの値段が上がるかもしれない。 しかし、和夫の胸には、新しい決意が灯っていた。


翌朝。公園清掃の仕事中、和夫は道端に咲く小さな花を見つけた。 季節が巡り、形を変えても、生命はまた芽吹く。 「さて、今日も一歩ずつだ」 和夫は力強く箒を動かした。目減りしていく数字の向こう側に、確かに存在する「生活」という手触りを、彼はもう一度、しっかりと掴み直していた。


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