第9話:【環境の罠】憧れだけで決める「無理な移住と開業」

「……これだよ、恵子。僕が求めていた『第二の人生』の完成形は」


和夫は、タブレットの画面に映し出された古民家の写真を、愛おしそうになぞった。信州の山あいに建つ、築八十年の美しい平屋。太い梁が天井を走り、薪ストーブの傍らには、木の温もりが漂うカウンターが設えられている。


「『森の珈琲店・サトウ』……。こだわりの豆を挽いて、訪れる旅人に極上の一杯を出す。退職金の一部を充てれば、改装費も込みで手が届く。都会の喧騒を離れて、土の匂いと共に生きる。最高じゃないか」


和夫の瞳は、まるで少年のように輝いていた。かつての「部長」としての理屈ではなく、純粋な憧れという名の熱病が、彼の思考を支配していた。


「でも、和夫さん。私たち、信州には一度旅行で行ったきりよ? 縁もゆかりもない土地で、いきなりお店を始めるなんて……」 恵子が心配そうに、淹れたての茶を差し出す。湯気の向こう側で、彼女の眉間には深い皺が寄っていた。


「大丈夫さ。料理教室にも通ったし、珈琲の淹れ方だってマスターした。何より、この静寂と景色が、最高の集客ツールになる。残りの人生、ただ守りに入るだけなんてつまらないだろ?」


和夫は、立ち上る茶の香りを胸いっぱいに吸い込み、すでに山あいの澄んだ空気を吸っているような錯覚に陥っていた。


数日後、和夫は不動産業者の案内で、現地を訪れた。 車を降りると、ひんやりとした山の空気が肌を刺す。鳥のさえずりと、遠くで流れる川の音。 「素晴らしい……」 和夫は、朽ちかけた縁側に座り、目を閉じた。ここで珈琲を淹れる自分の姿を、容易に想像できた。


だが、その時。 「おい、あんた。ここを買おうってのか?」 野太い声がした。見ると、泥のついた長靴を履いた、背中の曲がった老人が立っていた。この土地で長く農業を営んでいるという、地元の有力者の男だった。


「ええ、ここでカフェを始めようと思いまして。地域の方々の憩いの場になればと……」 和夫が精一杯の愛想笑いを浮かべると、老人は鼻で笑った。


「憩いの場? 悪いことは言わん。やめておけ。ここは冬になれば二メートルは雪が積もる。あんた、雪かきができるのか? 水道は凍る、近所付き合いは都会の百倍は濃い。おまけに、こんな山奥に珈琲を飲みに来る物好きなんて、一日に一人いればいい方だ」


「それは……工夫次第で……」 「工夫? 自然を舐めちゃいかんよ、都会の旦那。ここは『遊び』で生きていけるほど甘い場所じゃない」


老人の言葉は、冷たい北風のように和夫の頬を打った。 その夜、和夫は近くのペンションに泊まった。 夜になると、あたりは一寸先も見えない漆黒の闇に包まれた。街灯一つない沈黙。聞こえるのは、風が木々を揺らす不気味な音だけだ。都会の「静寂」とは違う、自分という存在が飲み込まれてしまいそうな、圧倒的な孤独感。


「……怖い」


布団の中で、和夫は震えていた。 もしここで、数千万の退職金を投じて店を開き、客が来なかったら? もし雪の中で病気に倒れ、恵子と二人きりだったら? これまでの「投資の罠」や「固定費の罠」を乗り越えてきたはずの和夫の脳裏に、小林や山崎さんの顔が浮かんだ。


「……まずは『お試し』だ。そうだろ、佐藤和夫」


翌朝、和夫は不動産業者に、契約の延期を告げた。 その代わりに、町が実施している「移住体験プログラム」への参加を申し込んだ。一ヶ月間だけ、公営の住宅に住み、地域の手伝いをしながら生活してみる試みだ。


一週間後、恵子と共に始めた「お試し移住」は、想像を絶するものだった。 朝五時からの共同作業。草むしり。そして何より、どこへ行くにも車が必要で、病院もスーパーも一時間弱かかる不便さ。


「和夫さん、腰が……もう限界よ」 恵子が、慣れない農作業で土に汚れた手をさすりながら呟いた。


「ああ。……僕が夢見ていたのは、この『暮らし』じゃなくて、単なる『景色』だったんだな」


和夫は、夕暮れの山並みを見つめながら、潔く溜息をついた。 憧れは、遠くから見るから美しい。その中に入って生きていくには、覚悟と準備が足りなすぎたのだ。


「恵子。ここを買うのはやめよう。退職金を全部注ぎ込む前に、この不便さを知ることができて良かった」


「良かったわ……。私、実は夜が怖くて仕方がなかったの」


自宅に戻った和夫は、再びダイニングテーブルで電卓を叩いた。 「移住に使うはずだった二千万円……これを守れたのは大きいな」


和夫は、恵子の手を握った。 「でも、夢を諦めたわけじゃない。信州に移住はしないけれど、今の家のキッチンを少し改装して、土曜日だけ仲間を呼ぶ『サトウ家・週末カフェ』ならできる。それならリスクはゼロだ。失敗しても、笑い話で済む」


「それなら、私も手伝うわ。山崎さんに教わったケーキを焼くわね」


和夫は、リビングの窓を開けた。 見慣れた街の灯り。遠くを走る電車の音。 かつては「退屈」だと思っていたこの景色が、今は何よりも愛おしく、安心できる場所に感じられた。


「お試し」というクッションを挟むこと。 取り返しがつかなくなる前に、自分の「足元の感触」を確かめること。 老後の挑戦は、背水の陣であってはならない。いつでも引き返せる、軽やかな挑戦こそが、人生を豊かにするのだ。


和夫は、タブレットの中の古民家の写真をそっと閉じた。 心の中には、もう「熱病」はない。 代わりに、現実的な、そして温かな「新しい夢」の灯が、静かに、けれど力強く灯っていた。


「さあ、恵子。まずはキッチンの図面を引こうか」


二人の笑い声が、住み慣れたリビングに響き渡った。


第9話 完


いよいよ次で最終回、「第10話:【総括】『計画』と『つながり』が作る最高の晩年」に進みます。数々の失敗と学びを経て、佐藤和夫さんが辿り着いた「幸せな年金生活」の答えとは。全編を締めくくる物語、執筆しましょうか?


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