第8話:【無知の罠】「年金通知」を放置するリスク
「まただ……また役所から同じような封筒が届いてる」
和夫は、玄関の郵便受けから取り出した数通の封筒を、忌々しげにリビングの机に放り出した。青や茶色の味気ない封筒。窓付きの隙間から覗く、細かく書き込まれた「重要」「親展」の文字。
「和夫さん、開けなくていいの? 年金事務所からみたいだけど」 恵子がキッチンから覗き込む。
「いいんだよ、どうせ中身は漢字と数字の羅列だ。読んだところで頭が痛くなるだけさ。年金なんて、一度手続きすれば自動的に振り込まれるもんだろう? 藪蛇(やぶへび)をつつくような真似はしたくない」
和夫は、それらの封筒を未開封のまま、棚の隅にある「保留ボックス」——実質的なゴミ箱——へと押し込んだ。
それから数日後のことだ。 和夫は鼻歌まじりに、銀行のATMへ向かった。今日は年金の振り込み日。シルバー人材センターでのわずかな給料と合わせて、今月は恵子を美味しい寿司屋に連れて行く約束をしていた。
「……ん? おかしいな」
画面に表示された残高を見て、和夫は首を傾げた。 予定していた金額よりも、明らかに少ない。いや、少ないどころか、年金が「一円も」振り込まれていないのだ。
背中に冷たい汗が伝う。ATMの機械が発する、無機質な動作音がやけに大きく耳に障る。 「まさか、システムエラーか?」
和夫は慌てて、以前小林という青年が対応してくれた年金事務所へと駆け込んだ。
「佐藤さん、落ち着いてください」 再会した小林は、困ったような表情で、和夫が持参した(棚の奥から引っ張り出してきた)未開封の封筒を一つずつ指差した。
「この封筒、見ていただけましたか? ここには『ハローワークで失業給付の申請をされた場合、年金の支給が止まる場合があります』と、はっきり書かれていたはずです」
「……えっ? 失業給付と年金は、別物じゃないのか?」
和夫の声が裏返った。退職後、シルバー人材センターで働くまでの間、和夫は「もらえるものはもらっておこう」と失業給付を申請していたのだ。
「65歳未満の特別支給の老齢厚生年金を受けている方が、失業給付の受給手続きをすると、年金の方は全額支給停止になる仕組みなんです。これを『併給調整』と言います。佐藤さん、ハローワークで手続きをした際に、説明を受けませんでしたか?」
「説明……。ああ、そういえば何か小難しいことを言っていたような気もするが……。まさか、全部止まるなんて」
和夫は、窓口のカウンターに崩れ落ちそうになった。 自分の「無知」が、これほど直接的に、数字となって跳ね返ってくるとは。
「佐藤さん」小林が、諭すように声を落とした。 「国や役所は、手続きの仕方は教えてくれますが、『どちらを選んだ方があなたにとって得か』までは、向こうから積極的には言ってくれません。通知を読まずに放置することは、自分の財布の底に穴が空いているのを、目隠しして見ないようにしているのと同じですよ」
トボトボと年金事務所を出ると、外は激しい夕立に見舞われていた。 雨の匂い、アスファルトから立ち上る熱気。和夫は雨宿りをしながら、スマホで「年金 併給調整」と検索してみた。 画面には、今まで避けてきた「公的な解説」が溢れていた。
「……知っていれば、ハローワークの手続きを少し遅らせるか、年金の時期を調整できたはずだったんだ。たった数枚の紙を読むだけで、数十万を守れたのに」
和夫は、自分の拳をグッと握りしめた。 現役時代、契約書の細部まで目を光らせていた自分が、なぜ自分の人生の「契約書」である年金通知を、これほどまで軽視していたのか。それは、引退したという甘えが生んだ、致命的な怠慢だった。
帰宅すると、和夫は棚の「保留ボックス」をひっくり返した。 溜まっていた封筒を、カッターで丁寧に開封していく。
「和夫さん、どうしたの?」 「勉強だよ、恵子。俺たちは、社会というシステムのルールを、何も知らなすぎた」
和夫は、恵子を隣に座らせた。 「介護保険料の改定、住民税の通知、医療費の還付金……。ここには、俺たちの生活を守るためのヒントも、損をしないための警告も、全部書いてあったんだ」
和夫は、赤ペンを取り出し、重要な箇所に線を引いていった。 インクの匂いが鼻をくすぐる。現役時代の、あのピリとした緊張感が少しだけ戻ってきた。
「恵子。来週、役所で開催される『シニアのためのマネーセミナー』に一緒に行こう。もう、人任せにはしない。自分の金と生活は、自分で情報を取って守るんだ」
数日後、和夫は寿司屋ではなく、自宅の食卓で恵子と向き合っていた。 お祝いは、もう少し先までお預けだ。けれど、食卓に並んだ質素な鯵の開きは、これまで以上に滋味深く感じられた。
「不便や損をするのは、仕組みが悪いからじゃない。仕組みを知ろうとしない自分が、一番の敵だったんだな」
和夫は、綺麗に整理されたファイルに「年金・税金」とラベルを貼った。 窓の外の雨は上がり、雲の間から鋭い陽光が差し込んでいる。 「無知」という暗闇を抜けた佐藤和夫の瞳には、かつての部長時代のような、知的な輝きが蘇っていた。
「さあ、明日はハローワークに行って、今の状況を整理してくるよ。遅まきながら、佐藤和夫、再始動だ」
和夫の力強い声に、恵子が深く、優しく頷いた。
第8話 完
次は「第9話:【環境の罠】無理な移住や開業」に進みます。知識をつけ、生活が安定してきた和夫さん。しかし、ふとした「憧れ」から、退職金を投じた『夢の田舎暮らしカフェ』の構想が持ち上がり……。執筆しましょうか?
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