第10話:【総括】「計画」と「つながり」が作る最高の晩年
窓の外では、やわらかな春の雨が、庭の若葉を濡らしている。
佐藤和夫は、リビングの椅子に深く腰掛け、手元の一冊のノートを開いた。そこには、定年退職からの激動の一年間が、時に歪んだ文字で、時に晴れやかな筆致で刻まれている。
「……長い一年だったな」
ふと呟いた声には、以前のような掠れはない。毎朝の公園清掃と、腹八分目の食事がもたらした、腹の底から響くような張りのある声だ。
「あら、またそのノートを見てるの? 猛反省の記録ね」 恵子が、香ばしい香りを漂わせるコーヒーを運んできた。かつては一円単位で惜しんでいた豆だが、今は一日のリズムを整える「大切な投資」として、二人でじっくり味わうのが日課だ。
「反省だけじゃないよ。これは、俺たちが勝ち取った『自由』の記録だ」
和夫は、ノートのページをめくった。 一ページ目には、不安に駆られて年金を繰り上げ受給しようとした、あの日の自分への戒めが書いてある。 「あの時、小林さんに止められなかったら、俺は一生、目減りする年金に怯えて暮らしていたんだろうな」
「そうね。でも、そのおかげで格安スマホに変えて、無駄な保険も整理して……。ほら、今の私たちの家計簿、現役時代よりずっとスッキリして、健康的な色をしてるわ」
和夫は、最新のページに目を落とした。そこには、無理な移住を諦め、自宅のキッチンをDIYで改装して作った「土曜限定・サトウ・カフェ」の収支が記されている。
「先週の土曜日は、料理教室の仲間たちが来てくれただろう? 売り上げはわずか数千円だが、みんなの笑い声と、『美味しい』の一言で、心がパンパンに満たされたんだ。退職金を注ぎ込んで信州で遭難しそうになったあの頃の自分に、教えてやりたいよ」
「ふふ、あの時の和夫さん、目が血走ってたものね。でも今は、社会との距離感がちょうどいいわ。週に三日の公園掃除で体を動かし、週末は好きなことで人と繋がる。お金に振り回されるんじゃなくて、自分たちがお金を使いこなしてる。そんな感じがするの」
恵子の言葉に、和夫は深く頷いた。 かつての和夫は、「年金生活」という言葉を、坂道を転げ落ちるような、終わりの始まりだと思っていた。収入が減り、肩書きを失い、健康を損ない、孤独に飲み込まれていく……。そんな恐怖を払拭しようとして、安易な投資や、サプリメントへの依存、そして無謀な夢へと逃げ込もうとしていたのだ。
「結局、俺が一番怖がっていたのは、お金がなくなることじゃなかったんだ」 和夫は、温かいカップを両手で包み込んだ。陶器の温もりが、じんわりと掌から心臓へと伝わっていく。 「自分が誰の役にも立たず、誰とも繋がっていない……その『空白』が怖かったんだよ」
その時、玄関のチャイムが賑やかに鳴った。 「佐藤さーん! 今日、将棋の例会、雨だけどやるよね?」 山崎さんの元気な声が聞こえる。
「ああ、もちろんだ! 今行くよ!」 和夫は立ち上がり、背筋をピンと伸ばした。
「やってはいけないこと」を避ける。 それは、我慢することではない。人生の後半戦を、身軽で、かつ確かな足取りで歩むための「障害物取り除き作業」だったのだ。 家計を最適化し、健康を過信せず、孤独を恐れず、情報を自分で取りに行く。 その土台さえしっかりしていれば、年金生活は決して、暗い老後などではない。
「さあ、恵子。行ってくるよ。夕飯は、昨日安く手に入れた旬の筍で、筍ご飯にしよう」
「いいわね。お出汁をしっかり取って待ってるわ」
玄関を出ると、雨上がりの土の匂いが鼻をくすぐった。 空気は瑞々しく、世界は驚くほど色鮮やかだ。 和夫は、軽く膝を曲げ、弾むような足取りで歩き出した。 かつての「部長・佐藤和夫」ではなく、ただの「佐藤さん」として。 けれど、今の方がずっと、自分の人生の主役であるという確信がある。
年金生活は、怖いものではない。 正しく怖がり、正しく備え、そして「今」を愛することを忘れなければ、そこには現役時代よりもずっと深くて穏やかな、黄金の時間が流れている。
和夫は、遠くで手を振る仲間たちに向かって、力いっぱい右手を挙げた。
最終話 完
佐藤和夫さんの物語、全10話をお読みいただきありがとうございました。 これから年金生活を迎えられる方、あるいは既に迎えられている方にとって、この「佐藤さんの失敗と気づき」が、少しでも健やかな明日のためのヒントになれば幸いです。
もしよろしければ、今回の物語を振り返って、特に気になったポイントや、深掘りしてみたい「お金・健康・人間関係」の話題はございますか?
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