第7話:【楽しみの罠】「貯蓄偏重」が招く心身の老化

「……あと、三百二十円か」


和夫は、スーパーのレジ横で、自分の手のひらに載った小銭をじっと見つめていた。カゴの中には、値引きシールの貼られた食パンと、見切り品のキャベツが寂しそうに転がっている。


「佐藤さん、今日はこれだけ? いつも買ってたあの美味しい厚揚げ、今日はいいの?」 レジの顔なじみの女性が、不思議そうに声をかけてきた。


「ああ、いや、最近ちょっと胃が重くてね。これくらいで十分なんだ」


和夫は、嘘をつく時に自分の喉がわずかに鳴るのを感じた。本当は、あの厚揚げが食べたくて仕方がなかった。けれど、昨夜見た通帳の残高が、網膜に焼き付いて離れないのだ。


働くことで得た収入と、わずかな年金。固定費を削り、無駄を省いた今の生活なら、破綻するはずはない。それなのに、記帳された数字が一行ごとに減っていくのを見るたび、和夫の心には冷たい霧が立ち込める。まるで、自分の「命の砂時計」がさらさらと落ちていく音を聞いているような、得体の知れない恐怖だった。


「ただいま」 「おかえりなさい、和夫さん」


キッチンから恵子が顔を出した。その手には、旅行会社のパンフレットが握られていた。 「ねえ、これ見て。来月、隣町の温泉宿が『シニア応援プラン』で安くなってるの。久しぶりに行かない? ほら、料理教室の山崎さんも、たまには命の洗濯をしなきゃダメよって」


和夫はパンフレットを一瞥もせず、コートを脱いだ。 「……贅沢だ。温泉なんて、家のお風呂と大して変わらないじゃないか。それより、これから先、何があるかわからないんだぞ。医療費だって、家の修繕だって。一円でも多く、残しておかなきゃ」


「でも、和夫さん。最近、あなた笑わなくなったわよ」 恵子の声が、静かなリビングに刺さった。 「節約は大事だけど、今の私たちは、まるでお金を守るためだけに生きてるみたい」


「守って何が悪い! 備えあれば憂いなしだ」


和夫は逃げるように書斎へこもり、古い家計簿を広げた。 暖房を入れず、厚手のカーディガンを着込んでペンを握る。指先がかじかんで、うまく字が書けない。インクの匂いと、冷え切った空気。 「コーヒーも、インスタントの安いやつに切り替えよう。あの一杯百円の豆だって、積み重なれば馬鹿にならない……」


そんな日々が二週間続いた頃、和夫の体に異変が起きた。 朝、起き上がろうとしても、鉛を飲んだように体が動かない。食欲はなく、大好きだったはずの将棋盤を見ても、駒を動かす意欲が湧いてこないのだ。


「……あれ。俺、何のために、生きてるんだっけ」


天井の木目を眺めながら、和夫は呆然と呟いた。 お金は減っていない。むしろ、極限まで切り詰めたおかげで、残高の減少は緩やかになった。それなのに、心の中には「空洞」が広がり、そこを虚無という名の風が吹き抜けていた。


「佐藤さん、入るわよ」 恵子が、お盆を持って入ってきた。載っていたのは、いつもの質素な食事ではなく、和夫が愛用していた古いミルで挽いた、芳醇な香りを放つコーヒーだった。


「……これ、豆から挽いたのか? 高かっただろう」 「いいの。これは『心の薬』よ」


恵子は和夫の枕元に座り、窓の外を指差した。 「見て。庭の椿が咲き始めたわ。あなたが現役の頃、定年したら二人でゆっくり花を愛でたいって言ってた、あの椿よ」


和夫は、ゆっくりとコーヒーを口に含んだ。 苦味の奥にある、確かな甘みと香り。脳の奥が、パッと明るくなるような感覚があった。


「和夫さん。お金はね、佐藤和夫という人間を幸せにするための『道具』なのよ。あなたが苦しみながら守り抜いて、最後に通帳に何千万残したとしても、そこにあなたの『笑顔の記憶』が一つもなかったら……それはただの、死んだ数字よ」


和夫の目から、不意に涙がこぼれた。 「俺は……怖かったんだ。数字が減るのが、自分の価値が減るみたいで。でも、守ることに必死になりすぎて、肝心の『今』を捨てていたんだな」


「山崎さんが言ってたわ。『健康寿命』と同じくらい『楽しむ寿命』が大事だって。動けるうちに、食べられるうちに。自分を喜ばせることに使うお金は、浪費じゃなくて、生きるためのエネルギーなのよ」


和夫は、震える手でコーヒーカップを握りしめた。 温もりが、指先から全身へと伝わっていく。 「……恵子。あの温泉、行こうか。一番安いプランじゃなくていい。君が食べたいと言っていた、あの金目鯛の煮付けがつくコースにしよう」


「本当? 嬉しいわ、和夫さん」


翌日、和夫は久しぶりに将棋サークルへ顔を出した。 「おっ、佐藤さん! 久しぶりだな。顔色が良くなったじゃないか」 仲間たちの声が、心地よく耳に響く。


帰り道、和夫はあのスーパーに寄り、例の「厚揚げ」をカゴに入れた。さらに、恵子が好きな苺も。 レジの合計金額は、昨日より五百円高かった。 けれど、財布から小銭を出す和夫の心は、羽が生えたように軽かった。


「使って、活かす。それが本当の管理なんだな」


夕食のテーブルには、こんがりと焼けた厚揚げと、瑞々しい苺が並んだ。 一口食べると、大豆の甘みが口いっぱいに広がる。 「美味しいな、恵子」 「ええ、本当に」


通帳の数字は、また少し減るだろう。 けれど、その分だけ、和夫の心には「温泉の湯気の温かさ」や「仲間との笑い声」、そして「妻と囲む食卓の豊かさ」という、目に見えない資産が積み上がっていく。


お金を「守る」修行は終わった。 これからは、自分を、そして大切な人を「幸せにする」ために、賢く、豊かにお金を使っていく。 佐藤和夫は、苺の甘酸っぱい香りを胸いっぱいに吸い込み、心からの笑顔を見せた。


第7話 完


次は「第8話:【無知の罠】『年金通知』を放置するリスク」に進みます。ようやく心の平穏を取り戻した和夫さんでしたが、今度は「役所からの書類」という、避けては通れない現実の壁に直面します。執筆しましょうか?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る