第6話:【健康の罠】「サプリ信仰」と生活習慣の乱れ

「……よし、これで明日の朝もスッキリだな」


佐藤和夫は、キッチンカウンターにずらりと並んだ色とりどりのプラスチックボトルを満足げに眺めた。「膝の潤いに」「血管年齢を若返らせる」「深い眠りのために」……。ボトルのラベルに躍る力強いフォントが、和夫の不安をかき消してくれる護符のように見えた。


カチャカチャ、と小皿に錠剤を出す音が、静かな夜のキッチンに響く。 和夫はそれを、一杯の水で一気に流し込んだ。喉を通る、粉っぽい薬の匂いと、少し硬いカプセルの感触。


「和夫さん、またそんなに飲んで……。それ、全部合わせたら相当なお値段になるんじゃないの?」 恵子が、呆れたようにリビングから声をかけてきた。


「恵子、これは投資だよ。健康への自己投資だ。せっかく料理教室で仲間もできたんだ、病気で寝込むわけにいかないだろ?」 和夫は胸を張ったが、実のところ、最近の自分の体に言いようのない「焦り」を感じていた。


公園の清掃で少し無理をすれば翌日まで腰が重い。料理教室で立ちっぱなしだと、足がパンパンに張る。現役時代は一晩寝れば治っていた疲れが、澱(おり)のように体内に溜まっていく恐怖。それを、最新の科学を謳うサプリメントでコーティングして、見ないふりをしていた。


「でもね、今日の夕飯のサバ、ほとんど残したじゃない。サプリでお腹がいっぱいなんて、本末転倒よ」 「いいんだよ、必要な栄養素はこれで足りてるんだから」


和夫は、恵子の言葉を遮るように寝室へ向かった。


翌朝。和夫は激しい動悸と、胃のむかつきで目を覚ました。 口の中は苦く、まるで錆びた鉄を舐めているような嫌な味がする。


「うっ……」 起き上がろうとしたが、頭が重い。窓から差し込む眩しい朝日が、網膜を刺すように痛い。 「和夫さん!? 顔が真っ青よ!」


恵子の叫び声が遠くで聞こえた。


数時間後、和夫は近所のクリニックの待合室にいた。消毒液の鼻を突く匂いと、低く流れるクラシック音楽。不安が、冷たい蛇のように胃のあたりでとぐろを巻いている。


「佐藤さん、診察室へどうぞ」


現れたのは、和夫と同年代の、落ち着いた雰囲気の医師だった。彼は和夫が持参した「サプリメント・リスト」をじっと見つめ、ふう、と深くため息をついた。


「佐藤さん。これ、一度に全部飲んでいるんですか?」 「ええ……。健康にいいと聞いたものは、なるべく取り入れようと。何しろ、もう若くないですから」


医師は眼鏡を外し、和夫の目を真っ直ぐに見つめた。 「いいですか。あなたの胃や肝臓は、これらの大量のカプセルを分解するためだけにフル稼働しています。食事を美味しく消化するための力まで、サプリの分解に使い果たしているんですよ。これでは『健康のために不健康になっている』ようなものです」


和夫は絶句した。


「血液検査の結果、栄養失調気味です。サプリを過信して、肝心の食事が疎かになっていませんか? 睡眠は? 適度な運動は?」


「……運動は公園の掃除を。食事は、最近はサプリでお腹が張って、あまり……。睡眠も、なんだかサプリを飲み始めてから、逆に神経が昂って眠れないような気がしていました」


医師は、処方箋ではなく、一枚のメモを手渡した。 そこには「旬の野菜を食べる」「15分歩く」「23時には電気を消す」という、あまりにも当たり前のことだけが書かれていた。


「佐藤さん。サプリは魔法の杖じゃありません。あなたの体を維持するのは、薬ではなく、あなたが今日食べた物と、浴びた日光、そして流した汗ですよ」


クリニックを出ると、街は昼下がりの柔らかな光に包まれていた。 和夫は、駅前の八百屋の店先に並んだ、瑞々しいほうれん草や、泥のついた大根を眺めた。


「……あんなに鮮やかな色をしてたんだな、野菜って」


現役時代は「効率」ばかりを求めていた。食事はエネルギー補給のための作業。健康は仕事をするためのメンテナンス。その感覚のまま年金生活に突入し、今度は「老化を防ぐ」という効率を、サプリという安易な手段に求めていた。


帰宅した和夫は、キッチンカウンターのボトルを、そっと戸棚の奥に仕舞い込んだ。 「恵子、悪い。今日の夕飯、何か温かいお味噌汁を作ってくれないか。出汁をしっかり取ったやつを」


恵子は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに頷いた。 「わかったわ。大根と油揚げのお味噌汁にしましょうか。山崎さんにいただいた、美味しいお味噌があるの」


台所から、カツオ節の香ばしい匂いが漂ってくる。 和夫は、医師に言われた通り、家の周りを15分だけ歩くことにした。 サプリを飲んでいた時のような「高揚感」はない。代わりに、足の裏に伝わる地面の硬さや、頬を撫でる風の冷たさが、心地よく体に染み込んでくる。


夕食の時間。 湯気が立ち上る味噌汁を一口、啜った。 「……旨い。五臓六腑に染み渡るとは、このことだな」


「そうでしょう? 噛んで、味わって、香りを嗅ぐ。それが一番の健康法よ、和夫さん」


和夫は、自分の体がゆっくりと「本物」の活力で満たされていくのを感じた。 化学的な味ではない、大地の味。 高価なボトルの中にはなかった答えが、この一杯の汁椀の中にあった。


翌朝、和夫は久々に、泥のように深い眠りから覚めた。 鏡に映った自分の顔は、サプリで無理やり塗り固めていた時よりも、ずっと血色がよく、自然な皺が誇らしげに刻まれていた。


「さあ、今日も公園の掃除、頑張ってくるか」


和夫は、戸棚の奥のボトルを一瞥(いちべつ)し、もう二度とそれらに頼らないことを決意した。 健康とは、買うものではなく、日々の丁寧な暮らしの中で「育てる」ものなのだ。


第6話 完


次は「第7話:【楽しみの罠】『貯蓄偏重』が招く心身の老化」に進みます。健康を取り戻した和夫さんでしたが、今度は将来への不安から、一円単位の節約に血眼になり、「楽しむこと」を完全に封印してしまい……。執筆しましょうか?


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