第5話:【孤独の罠】「人付き合いの断絶」が招く詐欺被害

公園の清掃で心地よい汗を流すようになった和夫だったが、それでも「埋められない空白」は、ふとした瞬間に足元から這い上がってきた。


仕事は週に三日。残りの四日、恵子が趣味のコーラスや友人とのランチで出かけてしまうと、家の中はしん、と静まり返る。現役時代、あんなに疎ましかった電話のベルも、鳴らなければ鳴らないで、自分が世界から忘れ去られたような焦燥感に変わる。


「……結局、俺に残ったのは会社という看板だけだったのか」


昼下がり、和夫は冷えた麦茶を飲みながら、スマートフォンの連絡先を眺めていた。かつての部下、取引先の担当者。指を滑らせても、自分から「元気か?」と送れる相手は一人もいない。会社時代の人間関係は、利害という接着剤が乾けば、これほどまでにあっけなく剥がれ落ちるものか。


その時、家の固定電話が鳴った。


「はい、佐藤ですが」 反射的に出た声は、少し掠れていた。今日初めて出した声だ。


「……あ、佐藤部長ですか!? お久しぶりです、元・開発部の村上です!」


若々しく、どこか懐かしい響きの声。和夫は記憶のインデックスを猛烈な勢いで検索した。村上……。いたような気もする。いや、確かにあの頃、開発部には勢いのある若手が大勢いた。


「村上くんか! 久しぶりだね。どうしたんだい、急に」 「いやあ、実は佐藤さんには現役時代、本当にお世話になったので。退職されたと聞いて、何か力になれないかと思ってお電話したんです。今、私は独立して、富裕層向けの資産運用コンサルをやってまして……」


「独立か。頑張ってるんだな」 和夫の胸の奥に、温かい灯がともった。自分を「部長」と呼び、頼ってくれる存在。社会から切り離された孤独な部屋に、一筋の光が差し込んだように感じられた。


「実は、佐藤さんだけに特別なご案内がありまして。元本を保証しつつ、月利で3%……。いえ、佐藤さんのためなら枠を広げます。ただ、これは明日までの限定案件でして」


村上の言葉は、滑らかだった。少しだけ「投資の罠」を学んだ和夫の脳裏に、警戒のアラートが微かに鳴った。だが、それ以上に「自分を特別扱いしてくれる」という快感が、判断力を霧のように包み込んでいく。


「明日までか……。額はどれくらいからだい?」 「最低500万円からですが、佐藤さんなら……」


その時、玄関のチャイムが激しく鳴った。


「和夫さん、開けて! 鍵を忘れちゃった!」 恵子の声だ。和夫は慌てて電話口の村上に伝えた。 「すまない、後でかけ直す」


扉を開けると、恵子が買い物袋を抱えて立っていた。背後には、同じ清掃ボランティア仲間の元気な老婆、山崎さんも一緒だ。


「あら、和夫さん。随分と顔が強張ってるわね。何かあった?」 「いや、元部下から電話があってな。運用の相談というか、なんというか……」


和夫が断片的に話をすると、山崎さんが鋭い目をして身を乗り出してきた。 「佐藤さん、それ、危ないわよ。村上さんだっけ? 会社にいた証拠はあるの? 名刺は?」 「いや、それは……声が誠実そうだったし、部長時代のことも詳しかったから」


「ダメよ、佐藤さん! 孤独な男の人ほど、昔の肩書きをくすぐられると弱いのよ」 山崎さんは、自身の苦い経験を話し始めた。 「私も夫を亡くした直後、同じような電話に引っかかりそうになったわ。一人の時間はね、思考がどんどん内側に向かって、自分に都合の良い物語を信じ込んじゃうの。相談相手がいないっていうのは、目隠しをして綱渡りするのと同じよ」


和夫は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。 「……恵子。俺、さっきまで、あいつのことを『いい奴だ』って信じようとしてた」


「和夫さん。あなたに必要なのは、高い利回りじゃなくて、本音で話せる『居場所』よ」


翌日、恵子と山崎さんに連れられ、和夫は地域センターの一角にある「男の料理教室」に足を踏み入れた。 そこには、エプロン姿で悪戦苦闘する同年代の男たちがいた。


「おい、佐藤さん! そこはもっとザク切りだよ!」 「塩入れすぎだ、血圧上がるぞ!」


立ち込める出汁の香り、玉ねぎを切って目にしみる痛み、そして遠慮のない笑い声。ここには「部長」も「ヒラ」もなかった。ただの、料理を焦がす老人たちの集まりだ。


「……ふう、疲れたな」 慣れない手つきでアジを三枚におろした和夫に、隣の男性が声をかけてきた。 「佐藤さん、あんた筋がいいよ。今度、うちの近所の将棋サークルにも来ないか? 料理の後は、一局打つのが定番なんだ」


「将棋か……いいですね。ぜひお願いします」


和夫は気づいた。 電話の向こうの「村上」が欲しかったのは、和夫の金だけだ。 だが、ここで共に汗をかき、料理を分け合い、将棋の駒を指す仲間たちが求めているのは、和夫という「人間」そのものだ。


「サードプレイス……。家でも職場でもない、第三の場所か」


帰宅後、再び固定電話が鳴った。和夫は迷わず受話器を取った。 「村上くん。……いや、村上くんを語る誰かさん。話は終わった。俺にはもう、あんたの甘い言葉を聞く時間なんて1分もないんだ。これから、仲間と明日の献立について相談しなきゃいけないんでね」


ガチャン、と受話器を置く。その音は驚くほど軽やかだった。


和夫は、リビングの窓を開けた。 かつては「孤独」を閉じ込めていた重い沈黙が、今は近所の子供たちの遊び声や、風の音で満たされている。


「恵子。俺、今度の週末、料理教室の連中を家に呼んでもいいか? 振る舞いたい料理があるんだ」 「まあ! 賑やかになりそうね。大歓迎よ」


和夫は、手についた魚の匂いをクンクンと嗅いだ。 生臭いけれど、それは自分が「今」を生き、他人と交わっている証拠だった。 名刺がなくても、肩書きがなくても、繋がれる場所はある。 孤独という罠を飛び越えた佐藤和夫の心には、これまでで一番、豊かな風が吹き抜けていた。


第5話 完


次は「第6話:【健康の罠】『サプリ信仰』と生活習慣の乱れ」に進みます。社交的になった和夫さんですが、今度は「若々しくありたい」という欲から、過剰な健康オタクへと走り出し……。執筆しましょうか?


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