第4話:【仕事の罠】「毎日が日曜日」という名の地獄
「……何時だ、今」
和夫が目を開けると、遮光カーテンの隙間から、暴力的なまでの真っ白な光が差し込んでいた。枕元に転がったスマホを確認する。午前10時42分。現役時代なら、会議を一つ終えて、二杯目のコーヒーを喉に流し込んでいる時間だ。
寝室に漂う、こもった体温の匂いと、微かな加齢臭。和夫は寝返りを打ち、重い体をよじらせた。 「いいんだ。俺はもう、誰にも縛られない自由を手に入れたんだからな……」
自分に言い聞かせるように呟き、リビングへ這い出す。 ダイニングでは、恵子がテキパキと掃除機をかけていた。和夫がボサボサの頭で現れると、彼女は掃除機の手を止め、怪訝そうな顔をした。
「あら、和夫さん。まだパジャマなの? 今日は火曜日、ゴミ出しも忘れてたわよ」 「いいじゃないか、別に。急ぐ用事なんて何もないんだ。定年っていうのは、何もしなくていい特権なんだから」
和夫は冷蔵庫から麦茶を取り出し、ラッパ飲みした。冷たい液体が喉を通るが、心までは潤わない。 テレビをつけると、昼前のワイドショーが、どこかの不倫騒動を繰り返し報じていた。画面の中の騒がしい音。外からは、下校中の小学生たちの甲高い声が聞こえる。世界は猛烈なスピードで動いているのに、このリビングだけが、時間が澱(よど)んだ沼のように止まっていた。
「……暇だ」
午後2時。和夫はソファに深く沈み込み、天井の染みを数えていた。 当初は「天国」だと思った。満員電車もない、締め切りもない、上司の小言もない。 だが、その天国はわずか二週間で、壁のない「牢獄」へと変わった。
「なあ恵子、散歩でも行かないか?」 「ごめんなさい、これからコーラスの練習なの。夕飯は適当に食べておいてね」
恵子は、軽やかな足取りで出かけていった。彼女には彼女の、現役時代から築き上げてきたコミュニティがある。残されたのは、会社の看板を失い、趣味もなく、名刺の出し方しか忘れてしまった自分だけだった。
夕刻、鏡に映った自分の顔を見て、和夫は戦慄した。 肌に張りがなく、目は濁っている。昨日誰とも喋らなかったせいか、声の出し方を忘れたように喉がヒリつく。 「俺は……このまま、腐っていくのか?」
翌朝、和夫は一念発起して、駅前の「シルバー人材センター」の門を叩いた。 古い雑居ビルの一室。湿った紙と、安っぽい芳香剤が混ざった独特の匂い。
「お仕事、ですか? 佐藤さんは……元・部長さん。事務職をご希望ですか?」 窓口の女性が、申し訳なさそうに言った。 「あいにく事務の求人は倍率が高くて。今すぐご案内できるのは、公園の清掃か、駐輪場の整理、あとは学童施設の用務員さんくらいですが……」
「……清掃?」 一瞬、プライドが鎌首をもたげた。部下に指示を出し、椅子に踏ん反り返っていた自分が、道端のゴミを拾う?
「佐藤さん」 女性が優しく付け加えた。 「お金のためだけじゃありません。ここに来る皆さんは、『誰かにありがとうと言われたい』から働いてるんですよ」
翌週、和夫は近所の公園の清掃員として立っていた。 支給された緑色のジャンパーは少しサイズが大きく、ナイロンの擦れるカサカサという音が耳につく。手には竹箒。
「おはようございます、おじさん!」 元気な声がした。見上げると、犬を散歩させている若い女性がいた。 「いつも綺麗にしてくれてありがとうございます。ここ、落ち葉がすごいですもんね」
「あ……ああ。おはようございます」 和夫の声は裏返った。けれど、胸の奥がじんわりと熱くなった。 現役時代、億単位の契約を決めた時でさえ感じなかった、むき出しの「感謝」がそこにはあった。
箒を動かすたびに、肩の筋肉が悲鳴を上げる。土の匂い、湿った落ち葉の重み、時折吹く冷たい風。五感が研ぎ澄まされていく。 「俺の体、まだ動くじゃないか」
三時間の勤務を終え、和夫は自販機で缶コーヒーを買った。 ポケットの中には、今日稼いだわずかばかりの時給分に相当する重み。 「……旨い」 安物のコーヒーが、これほどまでに五臓六腑に染み渡るとは。
帰宅すると、和夫の顔つきは一変していた。 「恵子、ただいま!」 「あら、和夫さん。なんだか顔色が良くなったわね」
和夫は食卓に座り、生き生きと語り始めた。 「公園に、面白い柴犬がいてさ。それから、さっきの雨で排水溝が詰まってたから、掃除してきたんだ。腰は痛いけど、なんだか頭がすっきりしてる。明日もあそこへ行くのが楽しみなんだよ」
「それは良かった。やっぱり人間、何かしら役割がないとダメね」
和夫は、壁にかけられたカレンダーを見た。 週に三日だけ、「仕事」という名の印が入っている。 残りの四日は、本当の意味での「休日」になった。 毎日が日曜日だった頃は、休日のありがたみなど微塵も感じなかった。だが、働いて、汗をかいて、社会と繋がっているからこそ、その後のビールが、そして何もしない時間が、極上の贅沢に変わるのだ。
「部長」という重たい鎧を脱ぎ捨て、一人の「清掃員の佐藤さん」として。 和夫は、現役時代よりもずっと深い、確かな「生」の歯車を回し始めた。
「さあ恵子、明日はその給料で、ちょっといいパンでも買って帰るよ」
和夫の笑い声が、澱んでいたリビングの空気を一気に吹き飛ばした。 窓の外では、夕陽に照らされた公園の樹々が、誇らしげに揺れていた。
第4話 完
次は「第5話:【孤独の罠】『人付き合いの断絶』が招く詐欺被害」に進みます。仕事を通じて社会との接点を得た和夫さんでしたが、一方で古い友人からの「儲け話」や、孤独な高齢者を狙う怪しい影が忍び寄ります。執筆しましょうか?
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