第3話:【固定費の罠】現役時代のままの「家計の贅肉」

「おい、和夫さん。この『プラチナ・ゴールド特約』って、一体何を守ってくれてるの?」


土曜の午後、ダイニングテーブルには、佐藤和夫が長年見落としてきた「遺物」が山積みになっていた。恵子が突き出したのは、色あせた青い封筒。中から出てきた保険の証書は、紙の端がわずかに黄ばみ、インクの匂いが時の経過を物語っていた。


「それは……部長に昇進したとき、当時の営業担当に熱心に勧められたんだ。『責任ある立場なら、これくらいは』って言われてさ」


和夫は、ぬるくなった煎茶を啜りながら、ばつが悪そうに目を逸らした。窓の外では、隣家の庭にある金木犀が強い香りを放っている。現役時代、この香りが漂う頃はいつも決算準備で忙殺されていた。その忙しさを言い訳に、口座から引き落とされる数々の「端数」を、和夫は「必要経費」というゴミ箱に捨て続けてきたのだ。


「部長さんだった頃は良かったわよ。でも今は、その肩書き、スーパーのレジじゃ使えないの。見て、これだけで月2万8千円。あなたの今の1日分の年金より高いのよ」


恵子の指が、通帳の項目を鋭く叩く。


「……2万8千円か」


和夫は、改めて数字を直視した。現役時代の、月収50万、60万という大河の中にいた頃なら、2万8千円は小さな小川のせせらぎに過ぎなかった。だが、年金という限られた「貯水池」で暮らす今、それは堤防を穿つ巨大な穴に見えた。


「和夫さん、これもよ。この『プレミアム・ミュージック・パス』。毎月980円引かれてるけど、あなた、音楽なんて聴いてる?」


「あ、ああ……。3年前、孫に『最新の曲が聴けるよ』って教えられて設定したんだ。操作が分からなくて、そのままに……」


「それから、この新聞の複数購読。タブレットでも読んでるのに、紙も取ってる。スマホ代も、2人で1万6千円。これ、現役時代の『贅肉』そのものじゃない」


恵子の言葉が、和夫の胸をチクリと刺す。 それは、単なるお金の問題ではなかった。これらの固定費を払い続けることは、和夫にとって「現役バリバリの自分」と繋がっているための、細い命綱のような気がしていたのだ。


「わかった。……手術しよう」


和夫は重い腰を上げた。


翌日、駅前の大手キャリアのショップは、若者や家族連れでごった返していた。人工的な芳香剤の香りと、絶え間なく流れるアップテンポなBGM。和夫は場違いな居心地の悪さを感じながら、整理券を握りしめた。


「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件で?」 現れた店員の少年は、和夫の半分も生きていないような若さだった。


「プランを、一番安いものに変えたいんだ。動画も見ないし、外でネットも使わない。……いや、正直に言おう。身の丈に合ったものにしたいんだ」


「身の丈」という言葉を出した瞬間、喉の奥が少し熱くなった。かつては「一番いいプランを」と胸を張っていた自分が、今は「一番安いものを」と懇願している。


「それでしたら、こちらの格安プランへの移行がスムーズです。月々の支払いは今の3分の1になりますよ」


店員の手が、淀みなくタブレットを操作していく。 「あ、それと、この『安心パック』と『クラウド容量追加』……これらも不要ですね。全部外しておきます」


次々と消されていく、不要なサービスの羅列。それは、和夫が長年背負ってきた「見栄」という名の重りを、一つずつ外していく作業のようだった。ショップを出たとき、秋の風が驚くほど軽やかに感じられた。


その足で、和夫は保険ショップへと向かった。 「佐藤様、この特約を解約されると、高度障害の際の保証が……」


担当者の心配そうな声。かつての和夫なら「万が一」という言葉に怯え、判を押していた。だが今の和夫は、恵子の顔を思い浮かべた。


「いいんです。子供たちはもう自立しました。私たち二人、住む家はあるし、最低限の医療保障さえあれば、あとは自分たちで貯めた金でやりくりします。過剰な未来への不安のために、今の生活を貧しくしたくないんだ」


家に帰ると、和夫はダイニングテーブルに座り、再び電卓を叩いた。 カチカチという乾いた音が、静かなリビングに響く。


「恵子、見てくれ」


保険の減額、格安スマホへの移行、使っていないサブスクの解約、新聞の一本化。 「全部で、月々4万2千円浮いたぞ。1年で50万円だ」


恵子が、目を丸くして身を乗り出した。 「50万円……! 毎年、ちょっとした海外旅行に行けるじゃない」


「いや、旅行もいいが……これで、あの『繰り上げ受給』をしなくても、十分に暮らしていける。心に余裕ができるな」


和夫は、自分の通帳を愛おしそうになでた。 現役時代の「贅肉」を削ぎ落としたあとに残ったのは、痩せ細った惨めな自分ではなく、余計なものを削ぎ落として研ぎ澄まされた、自由な自分だった。


「不思議だな。払うのをやめただけなのに、なんだか新しい小遣いをもらった気分だ」


和夫は、恵子が淹れてくれた二杯目の茶を啜った。 今度は、しっかりとした茶葉の味がした。 「入るお金」を増やすことは難しい。だが、「出るお金」を意志の力でコントロールすることはできる。それは、老後の人生における、初めての「勝利」のような気がした。


「さあ、明日はこの浮いたお金で、久しぶりに近所の美味しい蕎麦でも食べに行こうか。……あ、もちろん、ランチセットでね」


和夫の冗談に、恵子が声を上げて笑った。 開け放った窓から、夕食の準備をするどこかの家庭の、香ばしい醤油の匂いが流れてきた。 現役時代の鎧を脱ぎ捨てた佐藤和夫の、本当の「年金生活」が、今ようやく始まった。


第3話 完


次は「第4話:【仕事の罠】『毎日が日曜日』という名の地獄」に進みます。固定費を削り、家で安泰に過ごすはずだった和夫さんを、得体の知れない「孤独」と「退屈」が襲います。どう立ち上がるのか、執筆しましょうか?

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