第2話:【投資の罠】退職金を狙う「甘い誘惑と一括投資」

「特別なお客様にだけ、本日ご案内しているんです。佐藤様のこれまでのご貢献、そしてこれからの豊かなお時間を支えるための、特別なパッケージでございます」


銀行の応接室。厚手の絨毯が靴音を消し、ほのかに漂う上質なアロマの香りが、佐藤和夫の警戒心をゆっくりと溶かしていく。目の前に座る若き担当者、広瀬は、真っ白なシャツの袖口から高級そうな腕時計を覗かせ、眩しいほどの笑顔を向けていた。


和夫の目の前には、金文字が踊るパンフレットが広げられている。 『年金プラス・グローバル成長株ファンド(毎月分配型)』 『年利5%〜、特別優待金利キャンペーン中』


「5パーセント、か……」


和夫は、喉の奥が熱くなるのを感じた。先日、家計を見直して「出るお金」を絞ったばかりだ。だが、通帳に鎮座する1,500万円の退職金を見るたび、言いようのない焦燥感がこみ上げてくる。 「置いているだけじゃ、死に金だぞ。物価も上がっているんだ。守るだけじゃなく、働かせなきゃいけないんじゃないか?」


広瀬が、和夫の心の揺らぎを見透かしたように身を乗り出した。 「おっしゃる通りです! 今や貯金だけでは資産は実質的に目減りする時代。この退職金を一括で運用に回せば、毎月、年金とは別に『第二の給料』が振り込まれる計算になります。旅行も、お孫さんへのプレゼントも、もう我慢する必要はありません」


「一括で……全部か?」 和夫の指先が、テーブルの下でわずかに震えた。


「分散しては効率が落ちます。今が絶好の買い場ですから」


和夫の脳裏に、豪華な客船のデッキで恵子と笑い合うイメージが浮かぶ。エアコンの効いた静かな室内。広瀬の淀みのない声。それはまるで、耳元で奏でられる甘い調べのようだった。和夫はペンを手に取ろうとした——その時、ポケットの中でスマホが震えた。


「……すみません、少し失礼」


席を立ち、廊下へ出る。着信は元同僚の田中からだった。 「よう、和夫。退職金の運用、どうしてる? 実は俺……やらかしたんだ」


電話越しの田中の声は、砂を噛んだようにザラついていた。 「銀行に勧められるまま『毎月分配型』にぶち込んだんだが、蓋を開けてみれば、利益じゃなくて自分の元本を削って配当に回されてただけだった。資産がみるみる溶けていくんだ。怖くなって売ろうとしたら、今度は高い手数料でまた削られて……」


受話器を握る和夫の手に、じっとりと嫌な汗が滲む。 「……元本が、減るのか?」


「ああ。中身もわからん外貨建ての複雑な商品だった。和夫、頼むから『一括』だけはやめておけ。ありゃ投資じゃない、博打だ。理解できないものに、命の金を預けちゃいけない」


通話を切り、和夫は冷たい壁に背中を預けた。 応接室に戻ると、広瀬が相変わらずの笑顔で待っていた。だが、先ほどまで「プロの助言者」に見えていた彼が、今は獲物を狙う狩人のように見えた。


「佐藤様、いかがなさいましたか?」


「広瀬さん。この商品の運用報告書、直近3年分を見せてもらえますか? それから、信託報酬と、解約時の手数料、それと……もし為替が20円円高に振れた場合のシミュレーションも」


広瀬の表情が一瞬、凍りついた。 「あ、ええ。ですが、それはあくまで仮定の話でして……」


「仮定じゃない、現実のリスクだ」 和夫は、自分でも驚くほど冷徹な声を出していた。 「私はこの金を作るのに、40年かかった。満員電車に揺られ、頭を下げ、冷や汗をかいて積み上げた1,500万だ。それを、たった30分の説明で、中身もわからん『魔法の箱』に放り込むわけにはいかない」


和夫はパンフレットを静かに閉じ、カバンにしまった。 「今日は帰るよ。悪いが、もっと地味でいい。まずは100万単位で、自分でリスクを理解できるものから、時間をかけて考えてみる」


銀行を出ると、外は眩しい午後の光に溢れていた。駅前の雑踏。焼き鳥屋から漂う煙の匂い。生きている人間たちの、泥臭い活気。


和夫はそのまま、駅前の書店に向かった。 「まずは勉強だ。人任せにするから怖くなるんだ」


投資信託の基礎、インデックス運用、そして「守りの資産」としての債券。難しい用語が並ぶ本を数冊買い、喫茶店に入った。1杯450円のコーヒー。以前なら「高い」と思ったかもしれないが、今はその重みがわかる。


「広瀬さんが言ってた『第二の給料』なんて、そんなに甘い話があるわけないんだよな、恵子」 隣にいない妻に心の中で話しかける。


数日後、和夫は自宅のパソコンで、少額の「つみたて投資」の設定をしていた。 退職金のうち、当面使わない数百万だけを、世界中の株や債券にコツコツと分散して積み立てる設定だ。残りは、あえて「何もしない」という選択をした。ネット銀行の定期預金と、個人向け国債。利回りは雀の涙ほどだが、夜ぐっすり眠れる。


「和夫さん、何してるの?」 恵子が茶菓子を持ってやってきた。


「資産の『自衛隊』を組織してるんだよ」 和夫は笑って答えた。 「ドカンと一発狙うのはやめた。少しずつ、仕組みを学びながら、自分たちのペースで育てることにしたんだ」


「いいわね、それ。私も一緒に勉強しようかしら。老後の蓄えが知らないうちに消えていくなんて、怪談より怖いですもの」


和夫は、画面に並ぶ数字を見つめた。 1,500万円という塊を、一気に動かしてはいけない。それは、人生の終盤戦を戦うための大切な糧食だ。一度に食いつぶせば、あとは飢えるしかない。


夕食の支度をする恵子の包丁の音が、トントンと小気味よく響く。 和夫は、窓の外に広がる夕焼けを眺めた。 かつては「増やさなければ」という強迫観念に駆られていたが、今は違う。 「守ること」こそが、攻めることよりも勇気がいるのだ。


「焦ることはない。時間はたっぷりあるんだから」


和夫は、静かにパソコンの電源を落とした。 指先に残るキーボードの感触が、自分の意志で未来を選んだ証のように感じられた。


第2話 完


次は「第3話:【固定費の罠】現役時代のままの『家計の贅肉』」に進みます。佐藤さんが「元・部長」としてのプライドを捨てて、格安スマホへの乗り換えや保険の解約に挑む、格闘の物語です。執筆しましょうか?

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