年金生活の「落とし穴」回避術
春秋花壇
第1話:【受給の罠】目先の安心を求めた「安易な繰り上げ」
夕闇が迫るリビングで、佐藤和夫(65歳になったばかり)は、使い古した電卓の数字を何度も叩いていた。
「……足りない。どう計算しても、このままじゃジリ貧だ」
指先に残る冬の冷たさが、背筋を伝って重くのしかかる。定年退職から数ヶ月。現役時代の「なんとかなるさ」という楽観は、通帳に並ぶ引き落としの羅列を見て、一瞬で凍りついた。
ガチャン、と台所で妻の恵子が食器を置く音が響く。どこか刺々しいその音に、和夫は肩をすくめた。 「なあ、恵子。やっぱり年金、繰り上げて受け取ろうと思うんだ」
恵子が手を止め、濡れたままの手をエプロンで拭きながら振り返った。 「繰り上げって……本来の65歳より早くもらうってこと? でも、それって一生分が減るんでしょ?」
「背に腹は代えられないよ。退職金だって、家の修繕と娘の結婚祝いで半分以上消えた。今すぐ月数万でも入ってこないと、心の余裕が保てないんだ。暗い顔して通帳を眺めるだけの毎日なんて、もう御免だ」
和夫の声は少し震えていた。窓の外からは、帰宅を急ぐ車のエンジン音が聞こえる。かつての自分もあの中にいた。社会という大きな歯車の一部として回っていた頃の、あの「自分が何者かである」という熱っぽい感覚が、今はもう遠い。
「明日、年金事務所に行ってくる」
翌日、和夫は最寄りの年金事務所の重い扉を叩いた。独特の静寂と、古い紙が焼けたような匂い。窓口の担当者、小林という名の青年は、和夫が差し出した年金定期便に目を落とし、静かに話し始めた。
「佐藤さん。今すぐ受給を開始すれば、確かに明日からのお金は増えます。ですが……」 小林は一枚の表を差し出した。そこには残酷なまでの数字の羅列があった。
「0.4%です」
「え?」和夫は聞き返した。
「1ヶ月早めるごとに、受給額は0.4%ずつ永久に減額されます。もし今、60歳まで遡るような気持ちで5年分繰り上げれば、最大で24%の減額です。そしてこの『減った額』は、佐藤さんが80歳になっても90歳になっても、一生変わりません」
和夫はごくりと唾を飲み込んだ。窓から差し込む西日が、小林の眼鏡に反射して眩しい。 「でも、今が苦しいんだ。先の90歳のことより、来月の支払いが……」
「佐藤さん、深呼吸をしましょう」小林の声は穏やかだが、有無を言わさない強さがあった。 「今の不安は、暗闇の中で足元が見えない不安です。でも、安易な繰り上げは『一生続く穴』を自分で掘るようなものです。一度決めたら最後、取り返しはつかない。佐藤さんは、ご自身の家計の中身を、本当の意味で直視されていますか?」
和夫は答えに詰まった。家計。それは恵子に任せきりだった「ブラックボックス」だ。
「まずは、バケツの穴を塞ぐことから始めませんか? 蛇口を開いて水を足す(年金を増やす)ことを考える前に、どこから水が漏れているかを確認するんです」
帰宅した和夫は、恵子を食卓に呼び寄せた。 「恵子、悪い。全部見せてくれ。通帳も、カードの明細も、保険の証書もだ」
二人の前に広げられたのは、現役時代の「見栄と慣習」がそのまま形になったような書類の山だった。
「これ……なんだ、この保険料。月3万円も払ってるのか?」 「それは、あなたがもしもの時に私と子供たちが困らないようにって、30年前に入ったままの特約よ」 「でも、もう子供は独立したじゃないか。僕に万が一があっても、この額は必要ないはずだ」
和夫はペンを握り、明細に次々と斜線を引いていった。 「このスマホのプランもだ。2人で1万5千円? 恵子、動画なんて見ないだろ。格安プランにすれば5千円に収まる。それからこの、スポーツジムの会費……」 「私、もう半年も行ってないわ。膝が痛くて」 「解約だ。明日すぐに」
一つ、また一つと無駄を削ぎ落としていく作業は、不思議と和夫の心を軽くした。数字という「目に見えない敵」の正体を暴いていく感覚。インクの匂いと、紙が擦れるカサカサという音が、夜更けのリビングに響く。
「……あれ。恵子、これだけで月5万円は浮くぞ」 和夫は電卓を叩き、唖然とした。
「繰り上げ受給でもらおうとしていた額より、削れる額の方が多いじゃないか」
恵子も驚いたように計算書を見つめている。 「私たち、現役時代の気分のまま、ただ流されるようにお金を払っていたのね……」
窓を少し開けると、夜の冷たい空気が流れ込んできた。それは身を切るような寒さではなく、酔いを覚ましてくれるような、凛とした涼しさだった。
和夫は、年金事務所でもらった「減額率」の表を破り捨てようとして、思いとどまった。それを戒めとして、引き出しの奥にしまった。
「恵子。年金は65歳から、満額で受け取ろう。それまでは、この『スリムになった家計』でやっていく。足りない分は、僕がシルバー人材センターで少し働けばいい。週に3日、体を動かすくらいがちょうどいいさ」
恵子が、久しぶりに柔らかい笑みを浮かべた。 「そうね。私も、近所のスーパーのパート、また始めてみようかしら。家でじっとしているより、その方がずっと健康的だわ」
和夫は、自分の胸に手を当てた。そこには、数時間前まであったドロドロとした焦燥感はない。代わりに、自分の人生の手綱を、再び自分の手でしっかりと握り直したような、確かな手応えがあった。
目先の安心という「罠」に、もう少しで足を引っかけられるところだった。 老後は、長く険しい道かもしれない。けれど、余計な荷物を捨て、足元をしっかり照らせば、その先にある景色は決して暗いだけのものではないはずだ。
和夫は、冷めたお茶を一口飲み、小さく呟いた。 「さあ、明日はまず、スマホのショップへ行こうか」
その声は、現役時代のどの会議での発言よりも、力強く、そして穏やかだった。
第1話 完
次は「第2話:【投資の罠】退職金を狙う『甘い誘惑と一括投資』」に続きます。佐藤さんが銀行の窓口で「特別なお客様へ」と囁かれるシーンから始めましょうか?
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