5


翌朝、エルザがいつものように部屋を訪れた。


「おはようございます、ゼノン様」


カーテンを開け、朝の光を部屋に入れる。その手つきは昨日と変わらず、丁寧で優しかった。


だが、今日は——何かが違った。


エルザの動きに、かすかな緊張が見える。肩が強張り、視線が時折扉の方へ向かう。


『誰かを待っているようだな』


アルスが囁いた。


『昨夜の少年——イグナーツか。今日から世話役になると言っていた』


ゼノンは黙って、エルザの様子を観察していた。


やがて、扉が開いた。


「失礼する」


低い声と共に、黒髪の少年が入ってきた。


イグナーツ。


昨夜と同じ、感情のない顔。だが、今日は正式な訪問らしく、きちんとした服装をしていた。黒を基調とした、シンプルだが仕立ての良い服。


エルザが振り返り、少年に頭を下げた。


「イグナーツ様、お待ちしておりました」


「様はいらない。俺は使用人だ」


「で、ですが……」


「公爵に命じられただけの話だ。立場は変わらない」


イグナーツの声は平坦だった。感情の起伏がまるで感じられない。


エルザは困惑した様子だったが、やがて小さく頷いた。


「分かりました。では——イグナーツ、さん」


「それでいい」


イグナーツが部屋に入り、ゼノンの寝台に近づいた。


二人の視線が交差する。


昨夜と同じ——虚ろな目と虚ろな目が、互いを見つめ合った。


---


「今日から俺がこいつの世話役になる」


イグナーツがエルザに告げた。


「お前は——エルザ、と言ったか」


「はい」


「お前も引き続き世話を担当するらしい。俺と二人体制だ」


エルザの表情に、安堵が浮かんだ。


自分が外されるのではないかと心配していたのだろう。ゼノンはその変化を見逃さなかった。


『彼女はお前の傍にいたいようだな。なぜだろう』


アルスが問いかけた。


ゼノンには分からなかった。自分のような存在の傍にいたいと思う理由が、理解できない。


「お前はこいつの世話に慣れている」


イグナーツが続けた。


「俺は戦闘訓練を受けてきた。世話は専門外だ。だから、日常の世話はお前に任せる」


「では、イグナーツさんは——」


「護衛だ。こいつに危害を加えようとする者から守る。それが俺の役目だ」


護衛。


『生後六ヶ月の赤子に護衛か。普通ではないな。だが——考えてみれば当然かもしれない』


アルスが言った。


『お前は公爵家の嫡男であると同時に、「原初の王のクローン」という国家機密だ。それを知る者は少ないだろうが——知っている者がいれば、お前を狙う可能性がある』


狙う。


『奪おうとする者。消そうとする者。利用しようとする者。お前の存在は、様々な思惑を引き寄せる。だから——護衛が必要になる』


ゼノンは黙って、イグナーツを見つめた。


この少年が、自分を守るのか。


あの虚ろな目をした、感情のない少年が。


---


イグナーツが寝台の傍に立った。


「お前——俺のことが分かるか」


ゼノンに向かって、低く問いかける。


当然、答えは返ってこない。生後六ヶ月の赤子に、言葉を発する能力はないのだから。


だが、イグナーツは構わず続けた。


「昨夜、お前は俺の気配に気づいていた。目を閉じていたが——意識は完全に覚醒していた」


エルザが驚いた顔をした。


「え……? ゼノン様が……?」


「普通の赤子じゃない。俺が部屋に入った瞬間から、こいつは俺を観察していた。この目で——な」


イグナーツがゼノンの目を見つめた。


「虚ろに見えるが、何も見ていないわけじゃない。むしろ——全てを見ている。そういう目だ」


『鋭いな、この少年』


アルスが感心したように言った。


『普通の人間なら、お前の目を「虚ろ」としか認識しない。だがこいつは——その奥にあるものを見抜いている』


イグナーツが手を伸ばし、ゼノンの頬に触れた。


冷たい指先だった。だが、乱暴さはなかった。


「お前は俺と同じだ」


少年が呟いた。


「空っぽで、何も感じなくて——だからこそ、全てを見ている」


その言葉には、かすかな——本当にかすかな、共感のようなものがあった。


ゼノンはイグナーツの目を見つめ返した。


黒い目。深い目。底が見えない目。


確かに——自分と同じ目だった。


---


「あの……」


エルザが遠慮がちに口を開いた。


「イグナーツさんは、おいくつなのですか」


「六歳だ」


「六歳……!」


エルザの目が見開かれた。


「そんなに小さいのに、護衛を……?」


「年齢は関係ない。俺は訓練を受けた。人を殺す訓練を」


エルザの顔が青ざめた。


「こ、殺す……?」


「孤児院にいた頃から、そういう訓練を受けてきた。公爵に引き取られたのも、その能力を買われたからだ」


イグナーツの声には、何の感情もなかった。


人を殺す訓練を受けてきたという事実を、まるで天気の話をするかのように語る。


『孤児院で殺人の訓練——か。帝国の闇の一端だな』


アルスが呟いた。


『帝国には、孤児を集めて暗殺者として育成する組織がある。イグナーツはそこの出身なのだろう』


ゼノンはその情報を記憶に刻んだ。


イグナーツ。六歳。孤児院出身。殺人の訓練を受けた暗殺者。


そして——自分と同じ、空っぽの目を持つ者。


「怖いか」


イグナーツがエルザに問いかけた。


エルザは一瞬言葉に詰まったが、やがて首を横に振った。


「い、いいえ……怖くは、ありません」


「嘘だな。震えている」


「それは……」


「別にいい。怖がられることには慣れている」


イグナーツが視線をゼノンに戻した。


「こいつだけだ。俺を見ても、恐怖の色を見せなかったのは」


---


その言葉に、エルザがはっとした表情を浮かべた。


「ゼノン様は……そういえば、誰を見ても同じ反応ですね」


「ああ。恐怖も、好意も、何もない。ただ——見ている」


イグナーツがゼノンの顔を覗き込んだ。


「だから俺は、こいつが気に入った」


気に入った。


その言葉に、ゼノンは微かな違和感を覚えた。


イグナーツには感情がないように見える。なのに「気に入った」という言葉を使う。


矛盾しているように思えた。


『矛盾ではないかもしれない』


アルスが言った。


『彼には感情がないのではなく、感情を表に出す方法を知らないのかもしれない。あるいは——感情を持つことを禁じられてきたのかもしれない』


禁じられる。


『暗殺者にとって、感情は邪魔だ。恐怖があれば動けなくなる。情があれば殺せなくなる。だから——感情を殺す訓練を受ける。表に出さないように、抑え込むように』


だが、完全には消せない。


『そうだ。人間は機械ではない。どれだけ訓練を受けても、完全に感情を消すことはできない。抑え込むことはできても——根絶することはできない』


イグナーツが立ち上がった。


「今日から、俺はこの部屋の近くに詰める。何かあれば呼べ——といっても、こいつはまだ呼べないか」


少年の口元が、かすかに——本当にかすかに歪んだ。


笑みとも取れる、微細な表情の変化。


「まあいい。俺が気配で察する」


そう言って、イグナーツは部屋を出て行った。


---


部屋にはエルザとゼノンだけが残された。


エルザは複雑な表情でドアを見つめていたが、やがてゼノンの方に向き直った。


「不思議な方ですね、イグナーツさんは」


彼女の声には、まだ緊張が残っていた。


「六歳であの落ち着きよう……私なんて、六歳の頃は泥だらけで走り回っていましたのに」


エルザがゼノンを抱き上げた。


「でも、少し安心しました。ゼノン様を守ってくれる方がいるのですね」


守る。


ゼノンはその言葉を心に留めた。


自分には守るべき何かがあるのか。守られるべき価値があるのか。


分からなかった。


だが——イグナーツはそれを仕事として引き受けた。


命じられたから、という理由で。


『それだけではないかもしれないな』


アルスが言った。


『彼はお前を「気に入った」と言った。自分と同じ目をしている、とも。それは——仕事以上の何かがあるのかもしれない』


同じ目。


空っぽの目。何も映していない目。


だが、全てを見ている目。


イグナーツとゼノン。


二人の空虚な器が出会った日、何かが動き始めた。


それが何なのかは——まだ、誰にも分からなかった。

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「最狂公爵家の空蝕術師——俺の内には兄と王が棲んでいる」 @saijiiiji

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