2

食事が終わると、エルザはゼノンの口元を柔らかな布で拭った。


「はい、綺麗になりましたね」


その手つきは丁寧で、優しかった。まるで壊れ物を扱うかのように、細心の注意を払っている。


だが、それは愛情からくるものだけではなかった。


恐れ。


エルザの指先には、かすかな震えがあった。ゼノンの肌に触れる度に、その震えは微かに強くなる。


『気づいているか』


アルスが問うた。


気づいている。


『彼女はお前を恐れている。それでも逃げない。なぜだと思う』


分からない。


『観察を続けろ。いずれ答えが見えてくる』


ゼノンはエルザの顔を見つめた。


彼女は笑っている。だが、その笑顔の奥には——別の何かがある。


恐怖。義務感。そして——


何か、もっと深いもの。


ゼノンにはまだ、それを言語化する能力がなかった。だが、確かに「何か」があることだけは分かった。


---


食事の後、エルザはゼノンを寝台に戻した。


「少しお休みになってくださいね。私はお洗濯をしてきます」


そう言って、エルザは部屋を出て行った。


扉が閉まる。足音が遠ざかる。やがて、完全な静寂が訪れた。


ゼノンは天井を見つめていた。


白い天井。精緻な装飾が施された漆喰の天井。貴族の子息に相応しい、豪華な部屋の天井。


だが、ゼノンにとっては——ただの白い平面に過ぎなかった。


『退屈か』


アルスが問うた。


退屈という感覚が分からない。


『退屈とは、何もすることがない時に感じる不快感だ。時間が無為に過ぎていくことへの焦燥。刺激を求める欲求』


それならば、退屈ではない。


ゼノンには不快感がなかった。焦燥もなかった。刺激を求める欲求もなかった。


ただ——時間が過ぎていく。それだけのこと。


『それでいい。だが、いずれ退屈を知る日が来るかもしれない。お前が感情を喰らい始めた時——お前は変わる。少しずつ、だが確実に』


変わる。


『ああ。喰らった感情は、お前の中に蓄積される。怒りを喰えば攻撃性が、悲しみを喰えば陰鬱さが、喜びを喰えば——何かが、お前の空虚を満たしていく』


空虚を満たす。


それは——どういう感覚なのだろう。


『今の僕には説明できない。経験したことがないからな。だが、原初の王の記憶には——その断片がある』


原初の王。


ゼノンは、その名を心の中で反芻した。


父が時折口にする名。自分がそのクローンであるという事実。千年前に世界を滅ぼしかけた存在。


『彼は——最初は小さな感情から始めた。恐怖。不安。それらを喰らい、少しずつ力を蓄えた。やがて怒りを喰らい、憎悪を喰らい——気づいた時には、止められなくなっていた』


止められなくなる。


『そうだ。感情は——麻薬のようなものだ。喰らえば喰らうほど、もっと欲しくなる。もっと強い感情を、もっと大量に。その渇望が——彼を怪物に変えた』


渇望。


ゼノンにはまだ、渇望がなかった。何かを欲しいと思う感覚がない。だから、その警告の意味を完全には理解できなかった。


『今は分からなくていい。だが、覚えておけ。力には代償がある。お前がどれだけ喰らうかは、お前が決めることだ。だが——喰らいすぎれば、戻れなくなる』


戻れなくなる。


『原初の王がそうだったように。彼は——最後には自分が誰なのかすら分からなくなった。喰らった感情に埋もれ、自分自身を見失った』


自分を見失う。


ゼノンは、その言葉を心に刻んだ。


今の自分には、失う「自分」がない。空っぽだから、失うものもない。


だが——もし、いつか「自分」が生まれたなら。


『その時は、僕がお前を繋ぎ止める』


アルスが言った。その声は、静かで確かだった。


『僕はお前の中にいる。お前が自分を見失いそうになったら——僕がお前を呼び戻す。それが兄の役目だ』


兄の役目。


『ああ。僕たちは二人で一つだ。だから、僕はお前を見捨てない。お前がどれだけ喰らおうと、どれだけ変わろうと——僕はずっと傍にいる』


傍にいる。


その言葉が、空虚な心のどこかに——ほんの少しだけ、何かを残した気がした。


---


午後になると、来客があった。


部屋の外から、足音が近づいてくる。複数の足音。そして——重く、威圧的な気配。


『父親だ。誰か連れてきたらしい』


扉が開いた。


ヴァルハルト・アルカディスが、一人の男を伴って入ってきた。


父は相変わらず冷たい表情をしていた。銀髪を後ろに撫でつけ、鋭い目でゼノンを見下ろす。


「起きていたか」


声にも温かみはなかった。息子に対する言葉というよりは——実験対象への確認に近い響き。


傍らの男は、白衣を纏っていた。


五十代半ばに見える、痩せぎすの男。灰色の髪に、深い隈が刻まれた目。その目は——興味深そうにゼノンを観察していた。


「これが例の子供ですか」


男が言った。


「ええ。ゼノン。私の嫡男です」


「嫡男、ですか」


男が薄く笑った。その笑みには、何か含むものがあった。


「素晴らしい。本当に素晴らしい。生後六ヶ月でこの目——普通ではありませんね」


男がゼノンに近づいた。


その目が、ゼノンを舐めるように見つめる。品定めをするような、値踏みをするような——不快な視線。


『気をつけろ。この男は危険だ』


アルスが警告した。


『医者か研究者か——どちらにせよ、お前を「人間」として見ていない。実験材料として見ている』


男がゼノンの顔に手を伸ばした。


冷たい指が、頬に触れる。


「反応が薄い。痛覚は正常ですか」


「正常だ。ただ、泣かないだけだ」


「泣かない。笑わない。感情表出が見られない——まさに理想的ですね」


理想的。


その言葉が、ゼノンの耳に残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る