1
エルザがゼノンを抱いたまま、窓辺へと歩いた。
朝の光が、二人を包み込む。
「ほら、ゼノン様。見てください」
エルザが窓の外を指差した。
庭園には色とりどりの花が咲いていた。赤い薔薇、白い百合、紫のラベンダー。朝露を纏った花弁が、陽光を受けて宝石のように輝いている。
「綺麗でしょう? 私、お花が大好きなんです」
ゼノンの目が、庭園を捉えた。
色。形。配置。それらを認識することはできる。だが、「綺麗」という感覚は分からなかった。
綺麗とは何だ。
『美しいと感じる心の動きだ』
アルスが答えた。
『人間は、ある種の視覚情報に対して快感を覚える。調和のとれた色彩、均整のとれた形態——それらを「美しい」と認識する。感情の一種だな』
ゼノンには、その快感がなかった。
花を見ても、何も感じない。色の違いは分かる。形の違いも分かる。だが、それ以上の何かは——ない。
『今は分からなくていい。だが、覚えておけ。人間は美しいものを求める。美に対して心を動かされる。それが人間の弱点でもあり、強さでもある』
弱点と強さ。
その意味を、ゼノンは静かに咀嚼した。
「あ、見てください。小鳥ですよ」
エルザの声が弾んだ。
庭園の噴水の縁に、一羽の小鳥が止まっていた。青い羽根を持つ、小さな鳥。朝日を浴びて羽繕いをしている。
「可愛いですねえ」
エルザの目が細められた。その表情は柔らかく、穏やかだった。
『喜び、だな』
アルスが解説する。
『彼女は今、小鳥を見て喜んでいる。目が細まり、口角が上がり、声が高くなった。これが喜びの表れだ』
喜び。
ゼノンはエルザの顔を見つめた。
彼女の目尻には、細かな皺が寄っている。口元は自然に緩み、頬がわずかに紅潮している。声には抑揚があり、息遣いが軽くなっている。
これが、喜び。
『そうだ。覚えておけ。いずれお前は、この感情を喰らうことになる』
喰らう。
その言葉が、幼い心に深く刻まれた。
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小鳥が飛び去った後も、エルザはしばらく窓辺に立っていた。
「ゼノン様は、何がお好きなのでしょうね」
独り言のように呟く。
「まだ小さいから、分からないかもしれませんけれど……いつか、好きなものが見つかるといいですね」
好きなもの。
ゼノンには、その概念も分からなかった。
好きとは何だ。嫌いとは何だ。快と不快の違いは——理屈としては理解できる。だが、実感として感じることができない。
『お前は空っぽだからな』
アルスが言った。その声には、責めるような響きはなかった。
『空っぽだから、何かを好きになることも、嫌いになることもない。だが——空っぽだからこそ、何でも入れられる。いずれお前は、他者の感情で満たされる。喜びも、悲しみも、怒りも、恐怖も——全て、お前のものになる』
他者の感情で、満たされる。
それは——良いことなのか。悪いことなのか。
『どちらでもない。それがお前の在り方だ。良いも悪いもない。ただ、そうあるだけだ』
ゼノンは納得した。
納得という感情はないが、理解はできた。
自分は空っぽの器として生まれた。だから、他者から奪って満たす。それが自分の宿命であり、存在の意味。
『宿命という言葉は、少し違うかもしれないな』
アルスが訂正した。
『お前には選択肢がある。喰らうか、喰らわないか。満たすか、空のままでいるか。全てはお前が決めることだ。僕は導くが、強制はしない』
選択肢。
『そうだ。お前は操り人形じゃない。自分で考え、自分で選べ。それが——人間というものだ。感情があってもなくても、選ぶことはできる』
ゼノンは黙って、アルスの言葉を反芻した。
選ぶこと。
それだけは、誰にも奪われない。
生まれながらに感情を持たなくとも、選ぶことだけは——できる。
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「さあ、朝食にしましょうね」
エルザの声が、思考を中断させた。
彼女はゼノンを抱いたまま、部屋の中央にある小さな机へと向かった。
机の上には、既に朝食が用意されていた。白い陶器の器に入った、淡い黄色の食べ物。果物を潰して裏漉ししたものだ。
「今日は梨ですよ。甘くて美味しいんです」
エルザが小さな匙で食べ物を掬い、ゼノンの口元へ運んだ。
ゼノンはそれを受け入れた。
甘い。
味覚としては認識できる。舌が甘味を感知し、脳がそれを「甘い」と判断する。
だが、それが「美味しい」かどうかは分からなかった。
『美味しいというのは、味覚に対する快感だ。甘いものを美味しいと感じる人間が多いが、それは脳の報酬系が反応するからだ。お前の場合——その報酬系が機能していないのかもしれないな』
報酬系。
『簡単に言えば、快楽を感じる仕組みだ。美味しいものを食べた時、楽しいことをした時、人間は快楽を感じる。それが報酬だ。お前にはそれがない——だから、何を食べても同じに感じる』
何を食べても同じ。
ゼノンは咀嚼しながら、その事実を受け入れた。
食事は必要だ。体を動かすためのエネルギーを得るために。だが、それ以上の意味はない。楽しみもなければ、苦痛もない。
ただ、栄養を摂取するだけの行為。
「あら、よく食べてくれますね」
エルザが嬉しそうに笑った。
「ゼノン様は好き嫌いがなくて、助かります。他のお子様は、嫌いなものを出すと泣いて暴れるんですよ」
好き嫌いがない。
正確には、好き嫌いを感じる機能がない。
だが、それをエルザに説明する術はなかった。生後六ヶ月の赤子には、言葉がないのだから。
『説明する必要もないだろう』
アルスが言った。
『彼女には、お前が「おとなしい赤子」に見えている。それでいい。真実を知る必要はない』
ゼノンは黙って、食事を続けた。
エルザが運ぶ匙を受け入れ、咀嚼し、飲み込む。
その繰り返し。
感情のない、機械的な食事。
だが、エルザはそれを「おとなしい」と評した。世話がしやすいと喜んでいる。
人間は、見たいものを見る。
それが、ゼノンが最初に学んだことだった。
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