第一章「泣かない子供」
生後六ヶ月。
アルカディス公爵家の本邸は、帝都の中心部からやや離れた丘の上にあった。
広大な敷地に建つ白亜の城館。四方を囲む高い塀。その中には庭園、訓練場、使用人棟、そして本館が配置されている。
本館の三階、東の角に位置する一室が、ゼノンに与えられた部屋だった。
窓からは朝日が差し込み、庭園の緑が見渡せる。貴族の嫡男に相応しい、豪華な調度品が並ぶ部屋。
だが、その部屋を訪れる者は少なかった。
「おはようございます、ゼノン様」
例外は、この女だけだった。
エルザ・ハイネ。栗色の髪を後ろで一つに束ねた若い侍女。
彼女は毎朝、誰よりも早くゼノンの部屋を訪れた。カーテンを開け、窓を少しだけ開けて空気を入れ替え、ゼノンの様子を確認する。
「よく眠れましたか?」
返事がないことは分かっている。生後六ヶ月の赤子が言葉を返すはずがない。
それでもエルザは語りかけることをやめなかった。
「今日はとても良いお天気ですよ。雲一つない青空です。庭の薔薇も綺麗に咲いています」
ゼノンはただ、天井を見つめていた。
泣かない。笑わない。声を上げない。
他の侍女たちなら、この沈黙に耐えられずに逃げ出しただろう。実際、ゼノン付きの侍女は何人も交代していた。
「気味が悪い」「あの目に見られると夜眠れなくなる」——そんな噂が、使用人たちの間で囁かれていることをエルザは知っていた。
だが、彼女は逃げなかった。
「さあ、お着替えしましょうね」
エルザはゼノンを抱き上げた。
その時、ゼノンの目がエルザを捉えた。
虚ろな目。何も映していないはずの目。
だが、その目に見つめられた時——エルザは不思議な感覚を覚えた。
見られている。
ただ見られているのではない。
観察されている。
まるで、自分の中身を覗き込まれているような——
「……っ」
一瞬、背筋に冷たいものが走った。
だがエルザは、すぐに笑顔を取り戻した。
「ゼノン様は、よく見ていらっしゃいますね」
怯えを見せてはいけない。この子は、それを感じ取る。
直感的に、エルザはそう理解していた。
「お腹が空いたでしょう。今日の朝食は特別ですよ。新鮮な果物を潰したものです」
ゼノンは無言のまま、エルザの顔を見つめ続けた。
『この女、面白いな』
アルスの声が響いた。
ゼノンの意識の中——他の誰にも聞こえない場所で。
『他の者たちはお前を恐れて逃げ出す。だがこの女は違う。恐怖を感じながらも、それを押し殺している』
なぜだ。
ゼノンは問うた。言葉ではなく、思念で。
生後六ヶ月の赤子に、声を発する能力はまだない。だが、アルスとの対話は可能だった。思考を共有しているからだ。
『分からない。だが——彼女の中に、強い意志を感じる。恐怖よりも強い何かが、彼女を突き動かしている』
強い意志。
ゼノンには、それが何なのか分からなかった。
感情を持たない彼には、「意志」という概念すら曖昧だった。
『いずれ分かる。今は観察を続けろ。この女は、お前にとって重要な存在になるかもしれない』
ゼノンは答えず、ただエルザの顔を見つめ続けた。
栗色の髪。温かい笑顔。少しだけ強張った肩。握りしめた指先。
恐怖。それを覆い隠す優しさ。そして——その奥にある、何か強いもの。
全てを、記憶に刻んだ。
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