お天気屋夫人

猫小路葵

お天気屋夫人

 一月二十七日 雨、のち微雪


 奥羽より取り寄せた観測第五十二号は、もはや雪としての純度を減じつつある。

 気圧配置は停滞し、湿度は過剰だ。私の望む「しんしんと降り積もる静寂」は失われ、ただの泥濘ぬかるみめいた女にした。

 まこと遺憾の至りである。やはり標本は、瑞々しいうちに固定すべきであった。


 次なる観測対象として、昨年末に雇い入れた新しい女中を検討する。頭の働きは鈍いようだが、その空ろな双眸そうぼうは、いかなる気象をも投影しうる「白き虚空」の資質を備えていると言えよう。


 来たる春に備え、明日より観測第五十三号「花曇り」としての育成に着手する。





 は、丹波の山奥からこのお屋敷へ女中奉公に来ました。

 うちは小さいときから人よりぼんやりしていたので、「おまえに女中が務まるんか」と、親はえらく案じていました。

 うちの故郷では、しょっちゅう霧が出ます。ひどいときは隣の屋根も見えんくらい、濃い霧が出るんです。

「こないなトコで育ったさかい、うちの頭もこないにぼんやりしとるんかいなあ」

 あるときお父ちゃんにぼやいたら、「ここで育っとっても賢い子はなんぼでもおる。天気のせいにすな」と怒られました。


 うちの奉公先は、京都の街の東の端にあります。旦那様は、大学で天気の研究をなさっています。「気象学」というそうです。頭のよい物静かな方で、とにかく研究をするのが大好きなんやそうです。

 屋敷の庭には「百葉箱ひゃくようばこ」という箱が置いてあります。天気の観測に使う箱やそうです。庭を挟んで大きな蔵もあります。蔵の中には研究のための大事な道具がたくさんあるので、うちは入ってはいけないと言われています。

 奥様は美しい方ですが、お体が弱く、うちはまだちゃんとお顔を拝んだことがありません。奥の座敷に寝間を敷いて、一日中そこで過ごされます。そのせいか気難しいところがおありで、庭の紅葉もみじの色づきが悪いと嘆かれ、うちに当たられました。奥様は御簾みす越しにしか紅葉をご覧にならないので、よく見えておられないのかもしれません。

「奥様、うちの目ぇには美しい色に見えとります」

 うちは気を利かせて言ったつもりでしたが、奥様からは「やかましいよ。あんたにこの気持ちがわかるもんか」ときつく叱られました。奥様はうちを叱ったあと、まるで紅葉が散るみたいに、はらはらと泣いておられました。


 そんな奥様でしたが、ある日を境にがらりと変わられました。いつも気が立っておられたのに、まるで人が変わったようです。朝からご機嫌がよく、うちにも「おはようだよ」と声を掛けてくださいました。

 ただ、言い付けの筋も変わったので、うちは慌てました。これまでとはだいぶ勝手が違います。粗相のないように、うちは気を付けました。

 今日の奥様はとりわけ機嫌がよいみたいです。寝間から手招きでうちを呼んで、障子の隙間から紙に包んだ飴玉をくださいました。うちが「奥様おおきに」とお礼を言うと、奥様は優しく「なんも」と返事をなさいました。


 飴玉を手に、うちが廊下を引き返すと、そこに旦那様が立っておられました。

「すまんな」

 旦那様にいきなり謝られたので、うちはびっくりしてしまいました。

「妻はあの通りお天気屋やさかいな。いつも振り回してしもて、堪忍かんにんどっせ」

 旦那様は、それからうちの顔をじいっとご覧になりました。あんまりじいっと見られるので、うちはどうしてよいかわかりません。旦那様はうちの目ぇを覗き込んで、おっしゃいました。


「あんたはんは、真っ白やな」


 旦那様の端正なお顔に見つめられて、うちは胸がどきどきしてしまいました。何が真っ白なのかはわかりませんが、うちは急いで頭を下げて、仕事に戻りました。仕事をしながら、うちはこそっと、飴玉を口に放り込みました。飴玉は上品な街の味がしました。


 それからしばらくの間、奥様のご気分は落ち着いていました。奥様のお里は遠く奥羽の方やそうで、故郷が恋しいのか、寒い日によく空を見ておられました。うちが縁側の雑巾掛けをしていたときに、奥様が庭に立って空を見上げて、

ゆぎ、降らねべがなあ……」

 と呟かれたのを覚えています。雪深い土地の皆さんは雪などいらぬと言う人も多いと聞きますが、奥様は雪が降るのを待っておられるようでした。


 けれども、雪は降りませんでした。だからなのか、奥様はだんだん元気をなくされました。冷たい雨が降った日、奥様が庭の水たまりに座り込んで泣いておられました。まるで溶けかけの雪の達磨だるまみたいに、びちゃびちゃで泥まみれです。うちは走って旦那様を呼びに行きました。

 旦那様はすぐに駆け付けて、奥様を抱えて風呂場へお連れになりました。昨日の残り湯で汚れた足を洗う水音がしてきました。ばしゃーんと水音がするたびに奥様の細い悲鳴が聞こえました。うちは、お湯はすっかり水になってるのに平気やろかと心配になりましたが、あのしっかりした旦那様がなさることなので、きっとそれでよいのやと思い直しました。


 次の日、奥のお座敷はひっそりとしていました。障子は開け放たれ、布団も片付いていました。旦那様は、「妻は故郷へ静養に行ったんや」とおっしゃいました。うちは、ほっとしました。奥様はお里を恋しがっておられたので、これで奥様も元気を取り戻されるやろうと思いました。奥様が寝ておられたお座敷はがらんとして、もう誰もいませんでした。うちは、奥様に貰った飴玉の味をふと思い出しました。


 うちが旦那様に呼ばれたのは、その夜でした。旦那様の部屋の口で「ご用でしょうか」と聞いたうちに、旦那様は「ちょっと蔵に来なさい」と席を立たれました。日頃蔵には入るなと言われていたので、行ってよいのやろかと思いました。うちは旦那様の後ろについて、蔵に向かいました。


 初めて入る蔵の中は、聞いていた通り、たくさんの研究の道具がありました。衝立ついたての向こうまでは見えませんでしたが、まだまだいろんな物が置いてありそうでした。

「そこに座りなさい」

 言われたとおり椅子に座ると、旦那様も向かい合わせで椅子に腰掛けられました。

「あんたはん、名前はなんちゅうた(何といった)かいな」

 旦那様に聞かれて、うちは答えました。

「はなでございます」

 すると旦那様が目ぇを見開いて、「なんやて」と驚かれました。それから震える声で「まさか」「奇跡や」と独り言を繰り返されました。そして、うちに向かっておっしゃるのです。


「はな……これは天が授けた奇跡や。あんたはんはその名の通り、今日から『花曇りの淑女』にならはるのやで」


 うちは、わけがわからず、ぽかんとしていました。


「ええのやええのや。わからんのも無理おへん。すべて、私に任せはったらよろしおす」


 うちは、わからんなりに、この旦那様がそうおっしゃるならそれでよいのや、と思いました。うちが頷くと、旦那様はとても嬉しそうな顔をされました。


「ええか、はな……よう聞き。『花曇り』ていうのは、ただの曇り空とちゃう。光が桜の色と溶けおうた、どこまでも曖昧な、美しい停滞の空や」

「はい。うちの故郷にも『花曇り』の日がありました。生ぬるい風が吹いて、山桜がぼんやりしとって、なんや夢の中におるような……」


 うちがそう言うと、旦那様はとても優しく「そうか」と頷いてくださいました。

「ほんなら、あんたはんにもわかりますやろ。あんたはんのその真っ直ぐすぎる目は、『花曇り』には少々刺激が強すぎますのや……さあ、上を向いて。瞬きしたらあきまへんえ」


 旦那様の手に、小さくて茶色い薬瓶がありました。目ぇに差された薬はヒヤッとして、うちは思わず肩がぶるっと震えました。旦那様から「じっとしぃ」と言われて、うちは慌てて体に力を入れました。もう片一方かたいっぽの目ぇは「上手や」と褒めてもらえました。


 薬を差して少したつと、蔵の中の景色がぼんやりとしてきました。まるでうちの頭の中みたいにぼんやりです。見えにくい目を凝らすと、旦那様はうちの顔をじいっと見ておられるようでした。うちはちょっと怖くなって、旦那様にそう言いました。旦那様は満足そうな声でお答えになりました。


「心配しやはらんでよろし。あんたはん、ものすごう、ええ顔にならはったわ。どこまでも曖昧な、薄ぼんやりした、きれいな顔や。丁寧に育てたら、これからもっともっと美しゅうならはる。ああ、待ちきれへんなあ……」


 旦那様はほんまに嬉しそうでした。旦那様が心配いらんとおっしゃるのですから、それでよいのやと思います。そのとき衝立の向こうで、何かがことりと小さな音を立てました。続いて蚊の鳴くよりももっと微かな、女の人の泣き声のような音も聞こえた気がしましたが、旦那様が一度机を強く叩くと音は止みました。

 大きな音にうちがびっくりすると、旦那様はすぐにうちの手を包むように擦って、「大事なレディを驚かせてしもた。堪忍な」と謝ってくださいました。旦那様の手は大きくて、ささくれや傷もない、お殿様みたいな手でした。

「堪忍な」

 そうしてもらううちに、うちの不安はすっかり消えていたのでした。


 それから毎日、うちは……いえ、わたくしは、旦那様がおっしゃる『花曇りの淑女』になれるよう、旦那様にお導きいただきました。目薬を差すごとにわたくしの目はどんどんぼやけていって、とうとう見えなくなりましたが、その分、旦那様の優しいお声が聞こえます。


「あんたはんは、ほんまにええ姿をしたはるなあ」


 旦那様は、わたくしのぼんやりしたところが好きでたまらないとおっしゃいます。幼い頃は散々叱られた欠点でございますが、今になって幸いいたしました。

 もうすぐ桜の季節でございます。わたくしは立派な『花曇りの淑女』になれるよう、旦那様のもとで日々励んでおります。





 四月十二日 花曇り


 観測はついに成就した。観測第五十三号「はな」は、本日をもって申し分なき定常へと至る。

 桜の下に立つ彼女と世界とを分ける境界線は、全く消滅していた。

 視神経を潰し、その双眸そうぼうに永劫の霞を宿さしめた時より、彼女はもはや人の域を離れ、一個の「気象」と化したと言うべきであろう。


 ぼんやりと椅子に凭れかかるその姿は、光の乱反射とともに、室内に淡きメランコリイを満たす。かつて泥濘と化した第五十二号を処分し、「はな」を迎えた私の選択は、やはり正しかった。


 彼女は今、何を見ることもなく、ただ私の欲する「曖昧なる光」を放ち続けている。 これこそ、私が希求してやまなかった究極の「花曇り」である。天の授けしこの奇跡に、私は今宵もまた、幾度目かの平伏を捧げた。


 庭の百葉箱には、彼女の愛する飴玉の包み紙を、記念として収め置くことにする。

 さて、来たる梅雨に備え、次は「五月雨さみだれ」の資質を宿す個体を探さねばならぬ。


 観測は、永遠に続く。



 

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