第二話:統計的な悪意、あるいは幸福な不協和音(前編)

 教室の入り口が開く音は、いつも同じ質感を伴って僕の耳に届く。


「……おい、無視すんなよ久遠。お前のために椅子、綺麗にしてやったんだからよ」


 クラスの主犯格である松崎の声には、湿り気を帯びた粘りがあった。

 僕が自分の席に着こうとすると、そこには接着剤が塗りたくられた上に、大量のシャープペンの芯が撒(ま)かれた無残な椅子の残骸があった。

 周囲から下卑た笑いが漏れる。それは、特定の個体を排斥することで集団の結束を確認する、原始的な共同体の儀式だ。


「早く座れよ。それとも、またあのお姫様に言いつけにいくか?」


 松崎が僕の肩を強く突き飛ばす。僕はバランスを崩し、机の角に脇腹を強打した。かつての僕なら、この瞬間の松崎の重心の移動、周囲の生徒たちの視線の散布、そしてこの状況が解決に至るまでの最短経路を、一瞬の閃きで導き出せていたはずだ。


 ――脳の深部が、かすかに熱を帯びる。


 松崎の呼吸周期。取り巻きたちの卑俗な喧騒。廊下から近づく、特定の周期を持った足音。これらが重なり、一つの「解」を形成しようと――。


「――そこまでにしなさい。松崎君」


 思考の跳躍は、その凛(りん)とした声によって断ち切られた。  

 教室の入り口に立っていたのは、隣のクラスの西園寺瑠璃だった。彼女がそこに現れるだけで、松崎たちの低俗な熱狂は急速に冷やされ、教室は気味の悪いほどの静寂に包まれる。


「西園寺……。なんだよ、またお節介か?」


「お節介? 心外だわ。私はただ、耳障りな不協和音を止めに来ただけよ」


 瑠璃は松崎を一瞥(いちべつ)もせず、真っ直ぐに僕の元へと歩み寄る。彼女の歩幅、速度、そして僕と彼女の間に形成される距離。それは昨日、その前、さらにその前と、全く同じ「黄金比」を維持していた。


「久遠君、怪我はない? ……ひどい、椅子がこんなことに」


 彼女は僕の脇腹を案じるように手を添え、そして無残な椅子を見て、深く悲しげに眉をひそめた。その瞳には、自分のことのように心を痛める「聖女」の光がある。


「瑠璃、さん……。僕は、大丈夫だ。……いつも、ごめん」


「謝らないで。あなたが謝る必要なんて、どこにもないのよ」


 瑠璃はポケットから清潔なウェットティッシュを取り出すと、汚れた僕の椅子を、慈しむように、けれど徹底的に拭き清めていく。理事長の娘である彼女がそんな卑俗な作業に従事する姿に、松崎たちは居心地が悪そうに視線を逸らし、散り散りに自分の席へと戻っていった。


「……放課後は、図書室へ行きなさい。東雲さんも、あなたのことを心配していたわよ」


 瑠璃は僕のネクタイの歪みを直し、至近距離で僕を見つめた。その瞳の深淵には、僕をこの絶望的な日常から、自分という名の聖域へといざなう強固な意志が宿っている。


「……うん。わかった」


 僕が頷くと、瑠璃は満足げに微笑み、自分の教室へと戻っていった。

 松崎たちが再び舌打ちを始める。だが、その悪意さえも、瑠璃が残した「救済」の余韻の前では、どこか色褪せて見えた。  


 僕は椅子に座り、思考を止めようと努める。    


 瑠璃がこの教室に現れるタイミング。  

 松崎たちの暴力が、致命的な一線を越える直前で必ず静止する不自然さ。  

 昨日の松崎の罵倒と、今日の瑠璃の第一声。その間に介在する「空白」の時間は、今日も正確にコンマ数秒の誤差もなく一致していた。


「…………偶然、だよね」


 呟きは、自分の耳にさえ届かないほど小さかった。  


 再び脳の奥を刺した鋭い頭痛。

 僕はそれを、松崎に突き飛ばされた時の衝撃のせいだと思い込むことにした。  


 そうしなければ、この「完璧に調律された世界」の綻びに、気づいてしまうから。

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