第一話:調律された絶望(後編)

 かつて、僕は「神童」と呼ばれていた。  

 世界を構成する諸要素を、演繹的なプロセスを経ることなく直接的な「解」として受容できる特異な演算回路。

 盤上の駒が動く前から勝敗という名の結末を知ってしまう、ひどく味気ない特権を持った子供。  


 チェス盤を前にした時、僕の脳裏には数手先の未来ではなく、最終的なチェックメイトの形が閃光のように焼き付いた。思考の飛躍――いや、それは跳躍(リープ)と呼ぶべき現象だった。


 けれど、今の僕はただの「久遠 律」だ。  

 思考を止め、直感を封じ、理不尽な悪意に身を任せるだけの被害者。  

 校門へと続く長い影を一人で踏みながら、僕は自嘲気味に息を吐く。あの神童としての輝きは、あまりに眩しすぎる世界のノイズに耐えかねて、遠い過去に置き去りにしてきたはずだった。




「あら――。東雲さん、まだ残っていらしたの?」


 黄昏時の校門。  

 律が立ち去ったあとの静寂の中に、二つの影が重なる。  

 西園寺瑠璃が、門の傍らに佇む東雲ほむらに気づき、穏やかな、慈愛に満ちた声をかけた。


「……ええ。少し、図書室の整理に時間がかかったから」


 ほむらは感情を削ぎ落とした声で応じ、律が去っていった道を静かに見つめたまま動かない。


「律君、今日は本当に大変だったわね。……放課後は、図書室へ行けたのかしら」


「ええ。……ずっと、静かにしていたわ」


 ほむらの短い答えに、瑠璃は痛ましそうに眉をひそめ、胸元で両手を合わせた。その仕草は、敬虔な祈りを捧げる聖女そのものだった。


「そう……よかったわ。あんなに繊細な彼が、これ以上傷つくなんて、私、見ていられない。……明日も、彼が少しでも穏やかに過ごせるといいわね」


「……そうね。私も、彼が安心して過ごせるように、できることをするわ」


 二人の会話は、不遇な友人を想う、あまりに純粋な心配の言葉だけで構成されていた。  

 相手が何を考えているのかを詮索する様子もなく、ただ一人の少年の平穏を願う。そのやり取りには一点の曇りもなく、だからこそ、沈みゆく太陽が描く二人の長い影は、一分の隙もなく、完璧な静止を保っていた。


「では、また明日。……お疲れ様、東雲さん」


「ええ。……おやすみなさい、西園寺さん」


 それ以上の言葉は交わされなかった。  


 ただ、去りゆく二人の足音だけが、調律されたメトロノームのように正確なリズムで、宵闇の学園に響き渡っていた。


 

 ――その頃。  


 街灯の下を歩いていた律は、突如として足を止めた。


 

 脳の深淵。  


 封印していたはずの「直感のリープ」が、かつての脈動を呼び覚まそうと、一瞬だけ鋭いノイズを走らせる。


 瑠璃のハンカチが僕の頬を撫でた角度 / ほむらがページを捲る音が止まったタイミング / 誰一人として僕の帰り道を邪魔しない『空白』の違和感 ――。


 羅列される思考の断片。  


 けれど、その閃光は、今も肌に残る瑠璃の指の温かさと、ほむらの服から漂っていた微かな白檀の残り香によって、瞬時に霧散させられた。


「…………疲れてるな、僕も」


 律は頭を振り、思考を強制的に停止させる。  


 今の僕には、あの甘やかな救済だけがあればいい。    


 それが、美しく調律された「箱庭」への入り口だとも知らずに。  


 律は再び、二人の美少女が待つ明日へと、一歩を踏み出した。

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