第二話:統計的な悪意、あるいは幸福な不協和音(中編)
僕は重い扉を開け、いつものように最果ての静寂へと足を踏み入れる。
「……遅かったわね、律君」
カウンターの奥、薄暗い影の中に溶け込むようにして、東雲ほむらが座っていた。
彼女は開いていた本を閉じ、音もなく立ち上がる。
瑠璃がまばゆい「光の救済」なら、ほむらはすべてを飲み込むような「影の包容」だ。彼女が歩くたびに、僕を包囲していた教室の棘(とげ)が、一枚ずつ剥がれ落ちていくような錯覚に陥る。
「西園寺さんが言っていた通り……。また、ひどいことをされたのね」
ほむらが僕の前に立ち、至近距離で僕を見つめる。
彼女から漂うのは、落ち着いた白檀(びゃくだん)の香りと、古い紙が放つ乾いた匂い。
それは僕にとって、どの鎮痛剤よりも即効性のある安らぎだった。彼女は細く白い指先で、僕の制服に付いた汚れをそっと払う。その手つきは驚くほど優しく、けれど、何か大切な標本を点検するような執拗さを含んでいた。
「……大丈夫だよ。いつものことだから」
「いいえ、大丈夫じゃないわ。あなたの心は、目に見えないだけで、もうぼろぼろなのよ」
ほむらは僕の手を引き、窓際の指定席ではなく、さらに奥にある、背の高い書架に囲まれた死角へと誘った。そこは、管理委員である彼女だけが知る、学園の地図から消されたような小さな空白地帯。
彼女は僕を椅子に座らせると、自らはその隣に膝をつき、僕の膝の上にそっと頭を預けてきた。
「東雲、さん……?」
「ここでは、名前で呼んで。……律君。今は、何も考えなくていい」
ほむらは僕の手を取り、自分の頬に当てさせた。彼女の肌は少し冷たく、けれど僕の震える指先を優しく、確実につなぎ止める。 僕はふと、いつもなら彼女に促されるまま、奥の長椅子に横たわるはずの自分に気づいた。けれど、今日はなぜか、このまま彼女の温もりを拒んで、立ち去らなければならないような……そんな奇妙な衝動に駆られた。
僕は無意識に、彼女の手を振り解くようにして、少しだけ椅子を引いた。
「……今日は、もう帰るよ。少し、考えたいことがあるんだ」
日常のルーチンを乱す、微かな反抗。 その瞬間、図書室の空気がわずかに「凝固」した。
ほむらの動きが止まる。 彼女は僕を見上げたまま、瞬きを一つもしなかった。その瞳に宿ったのは、悲しみでも怒りでもない。まるで、精密な数式に予期せぬ「バグ」が混入したのを、冷徹に分析するような……深淵の輝き。
「……そう。考えたいこと、ね」
ほむらはゆっくりと立ち上がり、僕との距離を再びゼロにする。彼女の髪が僕の頬を撫で、白檀の香りが肺の奥まで侵食してくる。
「でも、今のあなたの演算能力では、答えは出ないわ。……律君、あなたはまだ、自分の足で歩くには『欠陥』が多すぎるもの」
彼女の手が、僕の耳を塞ぐようにそっと添えられる。
ほむらの呼吸数の急激な同調 / 彼女の指先が僕の脈動を正確にトレースするリズム / 窓の外で鳥が飛び立つタイミングと、彼女の言葉の韻律の一致――。
脳の奥底で、かつての神童が目を醒まそうとした。
「おかしい」「何かが合わない」という直感の火花。
「いいのよ。全部、私に預けて」
ほむらの囁き。それは慈愛に満ちた歌のようでいて、僕の思考回路に流し込まれる強力な鉛のようでもあった。
僕は再び、彼女の腕の中で思考を放棄しそうになる。
けれど、今日、僕がとった「予定外の行動」。
それに対してほむらが見せた、コンマ一秒の「静止」。 それは、美しく調律されたこの世界に、僕が初めて刻んだ、小さな、けれど致命的な不協和音だった。
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