第一話:調律された絶望(中編)
瑠璃による華々しい救済の後。僕は逃げるように、校舎の最上階にある図書室へと足を運んだ。
そこは僕にとっての、もう一つの聖域だった。
「……来たのね、律君」
低く、抑揚のない声。
書架の奥、貸出カウンターの主のように座る東雲ほむらが、本から視線を上げずに僕を迎える。
彼女は瑠璃のように、僕の傷を公然と拭うことはしない。ただ、僕がそこに入ることを無言で許可し、自分と同じ「影」の色を纏わせることで、追っ手から隠してくれる。
「……ああ。今日も、ここを借りていいかな」
「ええ。あなたの席は、いつもの場所に開けてあるわ」
ほむらが指し示したのは、死角になった窓際の席。そこには、彼女が愛用している栞(しおり)と同じ、微かな白檀(びゃくだん)の香りが、僕を招くように漂っていた。
僕は吸い込まれるように椅子に座る。
瑠璃の救済が「守護」という名の劇薬なら、ほむらのそれは「共感」という名の甘い麻酔だ。彼女は僕に何も尋ねない。ただ、僕が惨めに打ちひしがれている事実を、当然の理(ことわり)として受け入れてくれる。
「律君。少し、こっちに来て」
ほむらが本を閉じ、自分の隣にある丸椅子を引いた。
「……東雲さん?」
「その呼び方は、あまり好きじゃないわ。……いいから」
彼女は僕の手を引き、自分の膝に僕の頭を誘導した。いわゆる膝枕。
ラブコメの記号的な光景。けれど、そこに漂う空気はどこまでも冷ややかで、同時に恐ろしいほどに濃密だった。図書室を管理する彼女だけの、特権的な越権行為。 ほむらの細い指が、僕の髪をゆっくりと、慈しむように梳(と)いていく。
「教室は、不純物(ノイズ)が多すぎるわ。……あなたは、あんな場所にいるべき人じゃない。あそこは、あなたを削り、汚し、消費するための場所。……でも、ここは違う。ここは、私とあなただけの、静止した世界よ」
ほむらの瞳が、僕をじっと見つめる。その瞳の奥には、僕の弱さを歓迎し、それを永遠に保存しておきたいという、静かな狂おしさが潜んでいた。
心地よい。
彼女に頭を預けていると、自分の意志という重荷が、スライムのように溶け出していく感覚がある。
――再び、脳の奥底で火花が散る。
図書室の蔵書数と管理番号の不整合 / ほむらがページを捲る周期の正確さ / 窓の外の影が伸びる速度と、室内灯が点灯するまでのタイムラグの必然性 / 瑠璃が僕に貸したハンカチの香りと――。
「……律君。考えなくていいの」
ほむらが、僕の瞼(まぶた)をそっと指で閉ざした。
跳躍しかけた僕の論理が、彼女の柔らかな体温によって、再び深い泥の中へと沈められる。
瑠璃に守られ、ほむらに癒やされる。
クラス全員から虐げられているはずの僕は、今、世界で最も甘やかな地獄の底にいた。
僕は目を閉じたまま、ほむらの服の裾(すそ)を弱々しく掴んだ。
その時、ほむらの口元に、瑠璃が見せたものとは全く質の違う、けれど同じほどに「深い」微笑が浮かんだことを、僕はまだ知らない。
「そうよ……それでいい。私以外、何も見なくていいの。……律君」
夕闇が忍び寄る図書室。
そこは、二人の美少女によって編み上げられた、完璧な「嘘」の入り口だった。
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