箱庭の演算、あるいは救済者たちの共犯理論。――いじめられっ子の僕が、二人の美少女と堕ちる狂ったハッピーエンド
淡綴(あわつづり)
第一話:調律された絶望(前編)
窓際から差し込む五月の陽光はどこまでも透き通っているのに、僕の周囲にだけは、誰かがこぼした墨汁のような、ねっとりとした「悪意」が常に沈殿していた。
「――おい、久遠。聞いてんのかよ」
低く、地を這うような声。
次の瞬間、僕の視界は不自然な角度で傾いた。
机の脚がコンクリートの床を叩き、鋭い金属音が鼓膜を刺す。僕の体は重力に従い、冷たい床へと放り出された。
「……っ」
肺から空気が押し出され、短い悲鳴さえ上げられない。
床に散らばった僕のノート。そこには、誰の手によるものか分からない、執拗で、けれど几帳面な筆致の罵詈雑言が書き連ねられていた。
見上げる視界に、クラスメイトたちの「壁」が見える。
嘲笑、蔑み、あるいは徹底した無関心。
僕はただ、痛む脇腹を抱え、埃(ほこり)っぽい床に顔を押し付けることしかできない。
かつての僕なら、この状況を一つの「関数」として処理し、最適解を導き出せたのかもしれない。
――脳の深淵で、何かが脈動する。
机が蹴られた角度 15°/ 犯人の呼気に含まれる微かなアルコール臭 / 教室の湿度がもたらす音の伝播速度の遅延 / クラス全体の視線のベクトルが一点に収束する――。
視界が、一瞬だけ数式と記号の海に沈もうとした。
だが、その「跳躍」は、直後に訪れた激しい衝撃によって粉々に砕け散った。
「……あぐっ……!」
背中に、硬い革靴の感触。
理不尽な重圧が思考を白く塗り潰し、せっかく繋がろうとした論理の糸を無慈悲に引き千切っていく。
痛みは、知性にとって最大のノイズだ。僕は再び、ただの無力な「久遠 律(くおん りつ)」という被害者へと叩き落とされる。
視界は霧に包まれ、演算は霧散した。
「やめなさい、皆さん」
その声は、暴力の嵐を切り裂く、一筋の清冽(せいれつ)な風のようだった。
重圧が消える。
顔を上げると、そこにいたのは西園寺瑠璃(さいおんじ るり)だった。
学園理事長の愛娘。そして、この荒れ果てた教室において唯一「聖域」を守り続ける、美しき守護者。
彼女は周囲のいじめっ子たちを、憐れみさえ含んだ冷徹な視線で射抜いたあと、床に這いつくばる僕の前で、優雅に膝を折った。
「……可哀想に。また、こんなに汚されて」
瑠璃の手が、僕の頬を包み込む。
その掌は驚くほど白く、そして、どこか熱を帯びていた。
彼女がポケットから取り出したシルクのハンカチが、僕の顔についた汚れを丁寧に、執拗なまでの愛おしさを持って拭っていく。
「久遠君。大丈夫よ、私が来たわ。……あなたを傷つけるすべてのものから、私が、あなたを救ってあげる」
瑠璃の瞳に映る僕は、あまりに無力で、惨めで、救いようがない。
けれど、その瞳の奥にある「絶対的な慈愛」に触れた瞬間、僕は思考を止める誘惑に駆られる。
彼女の救済は、甘い麻酔のように僕の全身に回っていく。 痛みさえも、彼女の腕の中でなら、心地よい依存のスパイスに変質してしまうような。
「さあ、立ち上がって。……あとのことは、私がすべて正してあげるから」
瑠璃に支えられ、僕は震える足で立ち上がる。 クラスメイトたちが道を開く。そこにあるのは、聖女への畏怖。
僕は瑠璃に肩を預けながら、教室の隅に立つ、もう一人の少女の視線に気づいた。
東雲(しののめ)ほむら。
彼女は本を開いたまま、一度も目を上げることなく、けれど僕たちを包囲するこの空気を、誰よりも静かに「観測」していた。
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