第5話 扉の向こうにあるもの(その5)
夜、市立病院を訪れた真希は、ナースステーションで当直の看護師・中村に話を聞くことができた。中村は電子カルテをめくりながら当日の様子を教えてくれた。
「搬送されたとき、山田さんが同乗されました。バイタルを取る私たちより早く、岡崎さんの手を握って『もうすぐだよ、先生が診てくれるからね』って」
「蘇生を試みていたときも山田さんはそばでずっと岡崎さんを見守っていました」
蘇生を試みる際、ポケットの中には便せん一枚の手紙が入っていて、便箋の角は摩耗し、折り目には薄く汗の跡がにじんでいた。自宅で倒れていた傍らには小さな紙袋が落ちていて、その中には、小さな菓子折りが入っていたという。
佳代子さんへ
十年間、本当にありがとう。
あなたの笑顔とお茶の時間が、私の毎日でした。
心ばかりですが、これを受け取ってください。
どうか体に気をつけて。
岡崎 武雄
「おそらく、それを山田さんに渡そうとしていた矢先に倒れたんでしょうね」
深夜、自宅の湯船で真希は一日の会話を反芻する。湯気に桂花の入浴剤がほのかに鼻をくすぐり、浴室の天井に淡い輪郭を描いていく。
――遺産の三分の二は、山田さんへの十年分の『ありがとう』。
しかし遺留分を無視すれば子どもたちの心に軋みが残る。湯気を指でなぞりながら、真希は下書きのプランを湯船の縁で指さばきした。
・山田さんの生活設計と税負担を試算。
・岡崎姉弟に、父の感謝の証拠――手紙・看護師の証言――を共有。
・遺留分を行使しない代わりに、山田さんから思い出の品を返礼する提案。
・遺言どおり相続を執行し、双方が感情的に納得する道を探る。
(法律は冷たい線引きのようでいて、使い方次第で人の居場所をつくることもできる。私は、その線をどう引く?)
湯面をそっとかき混ぜ、
「明日、オーナーに相談しよう」
と小さくつぶやいた。
翌朝五時三十分。二度鳴ったスマホのアラームをようやく止めて家を飛び出した真希は、まだまぶたが重いまま CALAK の鍵を開けた。開店前の店内には客の気配もなく、十一種類の生薬を煮立てる寸胴がコトコトと静かな音を立てている。欠伸をかみ殺しつつ熱い白湯を一口すすり、ようやく頭に血が巡るのを感じると、カウンター奥で蒸籠の湯気を確認しながら前夜まとめたメモを胸ポケットへ押し込んだ。
「おはよう。今日もいい香りだね」
ダレスバッグを小脇に抱えた新山が、裏口からふくよかな体を滑り込ませる。眼鏡のブリッジをトントンと叩く癖は、これから真面目モードに入る合図だ。
「おはようございます、オーナー。今、少しお時間いただけますか」
「もちろん。蒸し玉子に火が入るまで十分だ。その間にどうぞ」
真希は寸胴の火を弱め、昨夜の相関図を広げる。山田佳代子の献身、岡崎姉弟の戸惑い、そして武雄の手紙。新山は一つひとつの円に目を走らせ、最後に便箋のコピーを指で押さえた。
「温かなありがとうだね。で、真希ちゃんの案は?」
「遺言どおり三分の二を山田さんへ。それで遺留分はあえて請求しない形を岡崎さん側に提案したいんです。武雄さんの感謝を削ることなく、岡崎さん姉弟にも納得してもらえる説明を――」
新山は浅くうなずき、真希の言葉を継ぐ。
「遺言書に具体的な遺産配分が書かれている場合、基本はその内容が優先される。これは《私的自治の原則》と《所有権絶対》が根っこにある。つまり、武雄さんは自分の財産を自由に処分できるし、その意思は最大限尊重されるということだ」
「遺留分は最後の盾だけれど、行使するかどうかは相続人が決めること。真希ちゃんが示す手紙と看護師の証言は、受遺者と相続人の関係を感情的に円滑にする鍵になるね」
真希は大きく息を吐く。
「やっぱり遺言優先で進めるべきですよね」
「そのほうがシンプルだ。そして山田さんにとっても岡崎姉弟にとっても、武雄さんの感謝が揺らがない。真希ちゃんが入るときの役目は一つ、関係者全員が納得という同じゴールを見るようコースを描くことだよ」
新山の言葉は、いつも正しい。穏やかで、急がせず、押しつけない。だからこそ、真希はその言葉に、いつも救われてきた。
それなのに――その日は、胸の奥で、わずかな引っかかりが生まれていた。
(……本当に、それでいいのかな)
新山は、経験も実績もある。行政書士としても、人としても、迷いの少ない人だ。
けれど自分は、まだその場所に立っていない。制度を知っているだけで、人の人生に触れる覚悟が、本当に備わっているのかどうか。
新山の言葉を、疑っているわけじゃない。ただ――その言葉に、まだ自分の足が追いついていない気がした。
(進めばいい、と言われても……)
進んだ先で、誰かを傷つけてしまったら。正しいつもりで選んだ道が、あとから遅かった、違っていたと分かってしまったら。
新山は、きっと受け止められる。でも、自分はどうだろう。答えの出ない問いが、胸の底で静かに揺れていた。
それでも――新山の隣に立ちたい、と思っている自分がいる。
迷いながらでもいいから、同じ場所を見て、同じ方向に歩いてみたい。その気持ちだけは、嘘じゃなかった。
鍋のフタがコトリと小さく跳ねる。蒸気の柱が立ち、玉子に白い膜が張り、甘い香りが二人の間に広がる。
「火が通ったみたいだね」
「はい。岡崎さんたちにも、この湯気みたいに――
少しずつでも、安心できる着地点を示せるようにしたいです」
新山は穏やかに笑い、カウンターに手帳を置く。
「もしものときは、いつでも俺を呼んで。安心してぶつかってくればいい」
「ありがとうございます、師匠」
真希は蒸籠の蓋を開け、湯気の向こうで新山に深く一礼した。遺言という最後の言葉を、温かな茶で包む準備は整った。古いゼンマイ時計の針が、開店時刻を告げるまでのわずかな時間。真希は薬膳だしの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、次の段取りを頭の中で静かに整えていった。
開店準備を終え、モーニングの客が引けた午前十時半。カウンターで食器を拭く真希の横顔を確認しながら、新山はスマホを耳に当てた。
「もしもし北村さん? うちの真希ちゃんだけど、例の岡崎さんの件で腹が決まったみたいでね。夕方、閉店前なら時間とれるから話を聞いてやってくれる?」
『OK! 鈴森さんも今日フリーだから引っ張っていくわ』
午後四時三十分。真鍮のベルが小さく鳴り、暮れかけの光がロールスクリーンを透けて差し込む。
「ただいま〜。困難事例セット参上!」
北村美奈代がピースサインを掲げて入り、鈴森篤哉が手を振りながら続く。
「下ネタは封印してきましたから」
「お願いしますよ」
真希が苦笑しつつカウンター席に招いた。
閉店前の CALAK には客の姿はなく、マイカイカと陳皮の香りが穏やかに漂う。真希は温かい和漢紅茶を三つ並べ、昨夜のメモを広げた。
「二人に整理してもらえると助かります。まず──」
「山田さんは《受遺者》になるのよね?」
北村が確認するように尋ねた。
「はい。相続人でない人で遺言で財産をもらう人のことを受遺者と言います。相続人ではない人でも、遺言があれば財産を受け取れるんです」
真希が答える。
山田の献身、武雄の手紙、岡崎姉弟の戸惑い。真希が順に説明すると、北村は頷きながらタブレットへ要点をメモし、鈴森は現場で見聞きしたエピソードを補足する。
「姉弟に話す順番は決めてる?」
北村がタブレットから顔を上げた。
「はい。まず武雄さんの手紙を読んでもらい、感謝が伝わったところで制度の話をします。数字や条文はその後です」
「うん、そのほうが心が先、理屈が後で入りやすいわね」
真希はメモの余白に『感謝→事実→選択肢』と書き込み、胸の霧が一つ晴れるのを感じた。
「久美子さんのお宅には私ひとりで伺います。義両親の介護の話を聞き役にまわって共感を得ておこうと」
真希はペンを握り直し、二人を見渡す。
「それと――岡崎さんは罪悪感を抱え込みがちだから、決して責めずに選べる余地を示そうと思います」
「ナイス戦略!」
北村がにっこり笑う。鈴森が湯呑を傾け、蒸気越しに真希を見る。
「山田さんには、遺言の執行段階で改めて説明だね。受け取る側が心配にならないように」
「はい、そのときはまた力を貸してください」
三人の笑い声が薬膳茶の甘い湯気と混ざり、店内へ溶けていく。真希はスマホを取り出し、岡崎へメールを入れた。
『遺言の件で、ぜひお時間をいただきたい』
すぐに了承の返信が届く。真希は手帳の最終ページに予定を書き込んだ。
『明日10:00 久美子邸(岡崎同席)』
青インクの丸が締まり、真希の中で道筋がはっきりする。
「ありがとうございます。これでみんな同じゴールを見られます」
北村がゆっくりと腰を上げると、鈴森も伸びをしながら腰を上げる。店内の奥では古いゼンマイ時計が、控えめに時を告げた。カチリ、と小さな音が響き、今日の終わりが近いことを知らせている。
「今日は早く休んでね。頭も心も整える時間が必要だから」
真希は笑ってうなずき、カップを布巾で磨く。柔らかな灯りを受けて縁がきらりと光り、明日の舞台を静かに待っているようだった。
薬膳カフェCALAK ~法の扉を開く場所~ アルバ @gsmt0613
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