第4話 扉の向こうにあるもの(その4)

 翌日の午後五時、閉店後の店内でガラス扉のベルが澄んだ音を立てる。春風をまとった北村と、その背後で気だるげに手を振る長身の男――鈴森篤哉が姿を現した。真希は和漢紅茶三杯分のトレーを掲げ、にこりと笑う。

「ようこそ CALAK へ。困難事例セットお待ちしていました」

 鈴森は目尻をゆるめピースサインを返す。

「じゃあ、お代は下ネタ三発で勘弁してね」

 北村が肘で小突き、三人の笑い声が薬膳の甘い色が空気に溶けていった。

 遺言を巡る糸はまだ絡まったままだが、そのほどき方を探るテーブルには、温かな茶と法律、そして人の想いを尊ぶ礎がそろいつつある。


 和漢紅茶の湯気が立ちのぼるCALAKの奥テーブル。北村美奈代がメモアプリを開いたタブレットを膝に置き、真希の向かいで軽く会釈する。その隣に腰を下ろした鈴森篤哉は、頬を指でかきながら湯呑を受け取った。

「岡崎武雄さんの件ですよね」

 鈴森が口火を切ると、北村がうなずきつつ補足する。

「今日は本人の家族は同席せず、私たちで状況を整理したいの。鈴森さん、遠慮なく教えて」

「はい。武雄さん、頑固だけど誠実な方でしたよ。ご家族に甘えないようにしていて、『自分のことは自分で』が口癖でした」

 鈴森は湯呑を手のひらで温めながら、思い出すように視線を落とす。

「利用者さんの受診同行で病院へ行ったとき、たまたま山田佳代子さんを見かけて、話をしていると……武雄さん、診察室から出てくるなり『わざわざ来なくていいのに』と言いながら、目尻がすごく柔らかくなっていて」

 北村がタブレットに走り書きしつつ尋ねる。

「山田さんとは長い付き合いなんだよね?」

「ええ。もう十年以上。ご主人を亡くされてから時間ができたそうで、掃除や買い物、病院への付き添いまでずっと。介護保険の枠に収まらない細かな世話――たとえば季節の菓子を買ってきて一緒にお茶を飲むとか、誕生日に好物の味噌煮を差し入れるとか――そういう生活の彩りを支えてくれていました」


 真希はメモ帳に『生活の彩り』と書き込み、顔を上げる。

「あと、市役所で山田さんに会ったこともあります。介護保険の申請書を出す日に偶然。山田さん、武雄さんの何かの手続きをしに行ってたんだと思いますけど、窓口で『同居じゃないので委任状です』と穏やかに説明していました。役所の職員が書式を間違えて返したときも嫌な顔ひとつせずやり直していて……正直、家族以上だなと感じました」

 北村が手を止め、鈴森の方へ身を乗り出す。

「山田さんが見返りを求めていた様子は?」

「ないですね。むしろ武雄さんのほうが気にしていて、病院の売店で小さな花柄のハンカチを買って『あの人に渡してくれんか』と私に頼んだこともあります」

 真希は胸の内で、小さなピースがつながっていく感覚を覚えた。

「――なるほど。遺産の三分の二は、長年の感謝をご自身の言葉で形にした結果かもしれません」

 鈴森は頷き、湯呑を置いて腕を組む。

「そう思います。ただ武雄さん、『子どもには迷惑をかけたくない』とも言っていた。山田さんに三分の二を託すことで、介護の負い目を少しでも埋めたかったんでしょう」

 北村がタブレットを閉じ、椅子の背にもたれて大きく息を吐く。

「法律の細かいところは任せるわ。けど――まずは山田さんに直接会って、その人の話を聞かないと始まらない気がする」


 真希は深くうなずき、手帳に新たなページを開く。

「はい。山田さんの気持ちを第一に。温かいお茶と、温かい時間を用意して――」

 鈴森が腕時計を確かめ、軽く指を鳴らした。

「明日の午後三時頃からなら僕も動ける。山田さんの在宅時間を確認しておくよ」

「助かります。じゃあ、明日ご一緒に伺いましょう」

 三人は互いに視線を交わし、小さくうなずき合った。

 薬膳の甘い香りがゆっくりと立ちのぼる中、真希は手帳に『明日15:00 山田さん宅(鈴森同行)』と書き込み、ページの端をそっと折った。


 次の扉が開く準備は、もう整いつつある。

 翌朝、CALAK の開店準備を終えたころ、鈴森からメッセージが届く。

『山田さん、午後三時に時間が取れるそうです』

 真希は『了解です! では、現地で』と返信し、店の奥で新山に声をかけた。

「オーナー、今日午後から鈴森さんと出かけてきますね。想いと想いを結ぶために」

 八角と朝鮮人参の香りが鍋から立ち上り、真希の背を温かく押した。


 真希と鈴森が山田佳代子の家を訪ねたのは、午後三時過ぎだった。

 雨上がりの路地に沈丁花の甘い香りが残り、濡れた瓦に薄日が差す。インターホンを押すと、玄関先に小柄な女性が現れた。少し驚いたように目を開き、両手をぎゅっとエプロンで拭う。

「行政書士さん……ですか?」

「はい。麻宮と申します。岡崎武雄さんのご遺言に、山田さんのお名前が記されていました。少しお話を伺えますか?」

 山田は黙ってうなずき、白い引き戸を開けた。


 畳の茶の間は整然としており、壁には四季折々の押し花が掛け軸のように飾られている。低いちゃぶ台の上には今日の新聞と読みかけの文庫本がきちんと揃えられ、生活の丁寧さがにじんでいた。山田は急須を温めながら、ぽつりぽつりと語り始めた。

「岡崎さんとは、ご近所づきあいからでした。主人が亡くなった後、毎朝ゴミ出しのとき顔を合わせてね。最初は『おはよう』だけ。でも桜が咲くころ、岡崎さんが杖をついて神社まで歩きたいと言い出して……」

「岡崎さんとよく話をするようになって、初めて迎えた春だったと思います」

 山田は急須の蓋を押さえ、湯を細く注ぎながら記憶をたぐる。

「桜並木の川沿いを、杖をついた岡崎さんの隣でゆっくり歩きました。毎朝『おはよう』とあいさつしていたけれど、その日が初めてのお散歩デビューで──神社の鳥居まで行けたんです」


 真希はノートに『初春・川沿い散歩』と書き込み、頷く。

「鳥居へ向かう途中、川面に花びらが浮いていてね。岡崎さん、杖を止めて『うちの孫も桜が好きでね』って、ご家族の話をたくさんしてくださいました」

 山田の表情が和らぐ。

「お孫さんの入学式の写真まで見せてくださって。正直、あのころは私の方が励まされていたんですよ」


 湯気が落ち着くのを待ち、鈴森が思い出を継いだ。

「神社へ行くようになって、その次の夏ですね。岡崎さんが介護サービスを申請することになり、僕が担当ケアマネとして入ったのは」

「ええ、よく覚えていますよ。最初、鈴森さんは私のことを奥さんかと思われたとか」

 山田が頬を赤らめると、鈴森は少し照れくさそうに軽く頭を下げた。

「失礼しました。最初に岡崎さんのお宅に訪問した際にすでに山田さんがいらしてて、お二人が並んで座っている姿があまりにも自然で……。それで奥さまだとばかり」

「あの頃は岡崎さんのことを手伝うことで、亡くなった主人を介護していた頃の寂しさが紛れていたんです」


 山田は茶碗を両手で包み、続ける。

「デイサービスの見学のときには体験で浴衣の着付けイベントがあって、岡崎さん、とても張り切ったんです。足が痛いのに『せっかくだから』って立ち上がって」

「ああ、ありましたね。転倒しないか冷や汗ものでしたが、笑顔が本当に晴れやかで。あの日、私は支援者というより応援団の気分でした」

 鈴森は懐かしむように目尻を下げた。


「見学が終わって帰る車の中で、山田さんが『頑張り屋さんなんです、あの人』っておっしゃったのが印象に残ってます」

 山田は静かにうなずき、声を震わせながら言葉を継いだ。

「見返りなんて考えていませんでした。むしろ……岡崎さんの『ありがとう』が、私の心を支えてくれたんです」


 真希はペンを置き、山田の言葉を深く胸に留めた。岡崎武雄の感謝、山田佳代子の献身、そして鈴森が見た両者の信頼――その線が少しずつ重なり、遺言の三分の二という数字の裏にある温度が、ようやく輪郭を帯び始めていた。

 思い出を語るうちに、山田の声がかすかに震え始めた。

「見返りなんて、ほんとに考えたことはなくて……。なのに三分の二だなんて。困りますよ……私なんかに」


 鈴森がそっと茶菓子を差し出し、静かな声で合いの手を入れる。

「山田さん、去年の市役所でもお会いしましたよね。武雄さんの医療保険の手続きで窓口を往復されていました。職員さんが『ご家族の方ですか』って聞いたときに二人で同時に――」

「『いいえ、近所の人です』って言ったら、職員さんに二度見されましたね」

 山田は目尻に浮いた涙を袖でぬぐい、笑いを混ぜたため息をつく。


 真希はノート『生活・感謝・自立』と三つの円を描き、軽くうなずく。

「武雄さんは、山田さんとの毎日が薬より効くと感じていたのだと思います」

 山田の話を聞いた真希は、鈴森と別れて武雄が搬送された市立病院へ向かった。


 

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