第3話 扉の向こうにあるもの(その3)

 岡崎が差し出したのは淡いクリーム色の封筒。真希の目に留まったのは遺言書在中の文字と、すでに切り裂かれている封。

(……もし自筆証書遺言なら、検認前に開封はトラブルになるかもしれない)

「岡崎さん、すみません。確認させてください。この封筒、開けたのは……?」

 岡崎は困ったように頭をかいた。

「ええと……私です。父の遺品を整理していたら、気になって。遺言書って書いてあったから、つい……」


 真希は深く息を吸い、静かな声で語りかける。

「遺言書には、自筆証書遺言と公正証書遺言があります。もしこれが自筆なら、開封する前に家庭裁判所で《検認》が必要になるんです」

「け、検認……?」

「はい。開封しただけで無効にはなりませんが、勝手に開けると相続人同士で疑いが生じることもあります。封が残っている場合は、専門家に見せるのが安全なんです」


 説明しながら封筒を傾けると、右下に名古屋公証役場と細い印字が見えた。

(……公正証書遺言だ。よかった)

 真希は呼吸の底で小さく息を吐き、微笑んだ。

「岡崎さん、これは公正証書遺言です。検認は不要ですし、封が開いていても問題ありません」

「えっ、本当ですか……!」

「ええ。公証人が立ち会って作るので形式的な不備はなく、安心ですよ」

 湯気の向こうで岡崎の頬にいくぶん血色が戻る。真希はそっと続けた。

「私の父も急逝し、母が手続きを一人で背負った時期がありました。書類一枚の不備で役所を何度も往復し、夜には疲れて声も出ないほどでした。ですから、お父さまが残された思いを形にしたこの一通が、岡崎さんご自身を守る杖にもなるはずです」


 祖母の「笑っていなさい」という言葉を思い返しながら、真希はやんわりと付け加える。

「遺言は故人からの最後の手紙でもあります。読み解くときは、条文より先に想いに触れることが大切なんです」

 岡崎は湯呑を両手で包み、湯気の向こうで瞳を伏せた。

「……実は、父の遺志を尊重したい気持ちと、戸惑いが半分ずつで……」


 封筒の端からは既に見知った一文『遺産の三分の二を山田佳代子に遺贈する』。他人に財産が渡る事実を知った岡崎は、茶の表面を見つめたまま小さく息をつく。

「父が、こんなにまでその方を大切に思っていたとは……正直、複雑で」

 真希は頷き、柔らかな声音で背を押した。

「迷うのは当然です。でも戸惑いごと、持ってきてくださって良かった。想いを整理するお手伝いができますから」

 岡崎の視線がわずかに真希を捉え、縋るような光を帯びる。


 マイカイカと陳皮の香りがテーブルいっぱいに広がり、ふとテーブルカードが微かに揺れた。真希は薬膳茶の急須を少しだけ近づけて差し出す。

「まずは、温まりましょう。ゆっくりでかまいませんから」

 岡崎はそっと一礼し、湯気を吸い込む。その奥にかすかに宿る涙光は、亡き父への後悔と、遺産の三分の二が向かう先への葛藤を映している。

「大切な方の想いが残されたものですから、丁寧に向き合っていきましょう。必要であれば、私のほうで相続の手続きのお手伝いもできますから」

 真希は祖母の言葉を胸で繰り返しながら、そっと手帳を開いた――新たな扉は、いま静かに軋み始めたばかりだ。


 数日後の午後、岡崎修三は再び CALAK の扉を押した。

「こんにちは。あの……先日の遺言の件、お願いできますか」

 真希は温かな笑みで迎え、窓際のテーブル席を勧める。薬膳茶を淹れながら遺言書を確認し、静かに読み上げた。

「……遺産のうち三分の二を山田佳代子に遺贈する――」

 岡崎は黙ったまま急須のふたを指でなぞり、低くつぶやく。

「正直、戸惑いました。父は家族にも本音を見せない人でした。でも、他人に三分の二も……私と姉はどうすればいいんでしょう」

「岡崎さん、お父さまの介護を担当したケアマネジャーにお話を伺えれば、事情が見えてくるかもしれません」

「ええ……たしか鈴森さん。イルカ居宅介護支援事業所の方でした」

「鈴森……イルカ居宅……。あれは美奈代さんのところ……。鈴森さんって、もしかしてオーナーとも仲のいい鈴森さん? ――いけるかも」


 CALAKが閉店した夕刻。片づけを終えた真希はバックヤードでスマホを取り出し、ケアマネジャーの北村美奈代にビデオ通話をつないだ。画面には、チェック柄の七分袖シャツのまま折り畳み自転車を軽ワゴンに積み込む北村の姿。

「美奈代さん、今大丈夫です?」

「おっ、真希ちゃん。ちょうど訪問先を回り終えたところ。どうしたの?」

「鈴森篤哉さんって、そちらの事業所ですよね。利用者さんの遺言の件で事情を聞きたくて……」

「ああ、あの飄々ケアマネ? 真面目だけどサボり癖あるから捕まえるのが大変よ。でも困難ケースはだいたい彼が落とし所つくるんだ。……って、真希ちゃん、口元が固い。相当込み入った案件?」

「お父さまの遺言で、近所の女性に三分の二を遺贈したいって条項があって。ご家族が戸惑われてるんです」

「なるほど。鈴森なら利用者と家族、両方の気持ちをいい温度で拾えると思うわ。鈴森のスケジュール押さえておくね」

 北村はピースサインをつくり、冗談めかして続けた。

「私の紹介料はCALAKの薬膳茶三杯ね」

「じゃあ明日の夕方、CALAKの薬膳茶フルコースで!」

「決まり♪ でも真希ちゃん、あんまり背負いすぎるなよ。ほら、肩落ちてる」

「はい、先輩」

 軽口を投げ合い通話を切る。北村の陽だまりのような声が、真希の胸を少しだけ軽くした。


 夜十時。客席の灯りを落とし戸締まりを済ませ、帰宅した真希は自宅の小さなダイニングテーブルに遺言の写しと白紙の方眼メモを広げた。窓の外では春の雨がアルミ物干し竿を軽く叩き、壁に水紋のような影を揺らす。

 ──三分の二が山田佳代子さん、残り三分の一が岡崎姉弟……。

 ペン先を動かしかけては止め、真希はまだ輪郭のぼやけた相関図を頭に浮かべる。

・岡崎武雄(故人)――晩年を支えた山田さんへの深い感謝。子どもに負担をかけまいとして距離を置いたのかもしれない。それでも、実子より近所の女性に頼ることをどう感じていたのだろう。

・山田佳代子――近所の世話好き? それとも武雄さんと家族同然の絆があった? 財産の三分の二を託されるほどの献身とは。

・岡崎修三――遠方勤務、妻を早くに亡くしたと聞く。介護に関われなかった罪悪感と、遺贈先への戸惑いが交錯している。

・姉・久美子――義両親の介護で手一杯。父の本心をどこまで知っていたのか。

「ええい、まだわからない……」

 真希は湯呑みに残った薬膳茶をすすり、吐息を小さくこぼす。

(まずは事実を集めよう。鈴森さんの現場感、山田さんの声、病院の看護記録……)


 白紙のメモは真っ白のまま。それでも真希は空白に青インクでふたつだけ丸を書く。

―― 想いと配慮。

 文字にしただけで少し霧が晴れた気がした。雨音が遠のいたのを合図にペンを置き、明日の予定を確認した手帳を閉じる。

「とにかく明日。鈴森さんに話を聞いて、だめなら美奈代さん。それでもだめなら、最後はオーナーに」

 

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