第2話 扉の向こうにあるもの(その2)
キッチンに立つようになって気づいたのは、新山の姿がよく消えることだった。午後になるまで戻らないことも多い。パートスタッフの田中に尋ねると、
「行政書士の仕事で施設や役所を飛び回ってるのよ。オーナーは人助けが趣味だから」
と笑う。
後日、新山が車椅子の高齢男性と公証役場から戻り、店の隅で遺言書の文案を読み合わせる場に立ち会った。認知症が進む妻の写真を握りしめたその男性が
「新山先生、ありがとう。安心しました」
と言って、目尻を潤ませるのを見た瞬間、真希は稲妻のような確信を覚えた。
(法律は、薬のあとを支えることができる……。人生の、別の種類の予防薬になり得るんだ)
「オーナー、私も行政書士になりたいです!」
ある日の閉店後、勇気を振り絞ってそう告げると、新山はやんわりと
「司法書士のほうがいいんじゃない?そっちの方が難しいけど、便利だよ」
と促した。
「でも……オーナーと同じ行政書士になりたいんです!」
自分でも驚くほど即答していた。口に出した瞬間、心臓がドクンと高鳴る。
「……そうか、そうだね。真希ちゃんは行政書士に向いてるかも」
新山は少しだけ照れくさそうに笑い、自分が使い込んだ基本書を手渡した。
「ずいぶん昔のだから法改正が多い。参考になるかどうかは分からないけど」
二十七歳の秋。昼はカフェ、夜はデスクで通信講座の講義を聴き、過去問と向き合う二重生活が始まる。ロールスクリーン越しの月が沈むころ、眠気と闘う机にはマイカイカと陳皮をブレンドした茶の香りが欠かせなかった。
翌年十一月、行政書士試験当日。会場に入ると、左腕に黄色い腕章を付けた新山の姿があった。毎年試験監督員を頼まれているのだ。
「真希ちゃん、調子はどう?」
「めちゃくちゃ緊張してます。足が震えちゃって」
「大丈夫。腹で三秒吸って、鼻から三秒吐く――はい、リラックス」
いつもの飄々とした声。それだけで、少しだけ心拍が落ち着く。
三ヶ月後の合格発表。スマホで試験センターのページにアクセスするが、なかなかつながらない。十分後、ようやく画面に自分の受験番号を見つけ、真希は息を呑んだ。
「やった……合格した!」
声が震え、視界がじわりと滲む。奥の部屋から飛び出すと、新山と田中が待っていた。
「どうだった?」
「合格しました!」
「すごいね、真希ちゃん。頑張ったもんね」
祖母の「笑っていなさい」という言葉が、甘い茶の香りといっしょに胸いっぱいに満ちた。
それから二年。三十歳の今、真希はモーニングからランチを切り盛りし、午後のティータイムには世間話に花を咲かせながら、ときに法律相談に応じる。薬膳茶の香りと条文が溶け合い、客の表情がほぐれていくのを何度も見た。
祖母の病室で掴んだ(薬だけでは限界がある)という痛みは、今、ナツメの甘さと法律の条文で包み直され、誰かの予防薬になり始めている。
そう思いながら、真希はカウンターの内側でそっと息を整えた。
(私は、ちゃんとここに立っているだろうか)
ふと、そんな問いが胸の奥に浮かぶ。薬に囲まれて働いていた頃とは、違う時間の流れ。数字や効能では測れない暮らしの重さが、この場所にはある。
それでも、ここに戻ってきてしまう理由を、真希は自分なりに考えていた。
逃げたくて選んだ場所じゃない。楽なほうへ来たわけでもない。ただ――
誰かの困ったに、すぐ手を伸ばせる距離にいたかった。役所でも、病院でもなく、名前も立場も脱いだまま、立ち止まれる場所で。
真希はカップを磨く手を止め、静かに深呼吸をする。湯気の向こうで、客たちの声がやわらかく重なっていく。
(今は、まだ何も起きていない、ただ、いつもの一日が流れているだけ)
そう言い聞かせるように、もう一度カップに視線を戻した。
カップを磨きながら、ふと、真希の脳裏に昔の台所が浮かんだ。実家の、少し古い流し台。朝の光が斜めに差し込んで、白い湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。
――母は、いつも黙って家事をしていた。
忙しそうでも、疲れていても、愚痴をこぼすことはほとんどなかった。役所から届く分厚い封筒も、祖母の病院の書類も、いつの間にか台所の端で整えられていた。
「あとで見るから」
そう言って、母はいつも後回しにした。母の言う「あとで」は、だいたい夜遅く。真希がもう部屋に戻ったあとだった。
父が倒れたときも、母は同じ顔をしていた。慌てるでもなく、泣くでもなく、ただ必要な連絡先を順に確認して、電話をかけていた。
――誰にも、頼らなかった。
その背中を見ながら、真希は
(大人って、こうやって全部一人で抱えるものなんだ)
と、勝手に思い込んでいた。でも、本当は――抱えなくてよかったのだと、後になって気づいた。
制度も、相談窓口も、助けを求める場所も、ちゃんとあった。ただ、聞きに行く余裕がなかっただけで。
(あのとき、誰かに聞けていたら……)
真希は、磨いていたカップの縁を指でなぞり、そっと息を吐いた。今なら、分かる。
困っていると言葉にする前の段階で、立ち止まれる場所があれば。母は、少しだけ楽になれたのかもしれない。
だから――
だからこそ、この場所に立っていたいのだと、真希は思った。
そう感じたとき、真鍮のベルが澄んだ音を奏でた。夕方の光とともに入ってきたのは五十代後半の男性・岡崎修三だ。ジャケットの袖を強く握る仕草が不安を物語り、片方の手に握られた大きな封筒には〈遺言書在中〉の文字が黒々と覗いていた。
真希は磨き上げたカップをそっと置き、湯を沸かす。蒸気が上がり、マイカイカと陳皮の香りがカウンターを満たす。
(笑顔は薬――おばあちゃんの遺言みたいな言葉。今度こそ、あのときみたいに何もできない自分にはならない)
喉の奥でそう呟き、真希はカウンター越しに穏やかな声を落とした。
「いらっしゃいませ」
ドア前に立つ岡崎修三の顔色は、午後の日差しを受けても紙のように白かった。左手はジャケットの袖口を握り込み、右手には厚い封筒。肩がわずかに上下し、視線は床と真希のあいだで揺れ、封筒の角を何度も触る手はかすかに震えている。
(きっと身内を亡くされたばかり……それとも相続か――でも、どちらにしても困っている人の顔だ)
真希は胸の内に小さな警鐘を感じながら案内した。テーブル席へ腰を下ろす岡崎が袖を放すと、封筒の端から黒い太字が覗く。遺言書在中。真希は鼓動がわずかに速まるのを覚えた。
「こんにちは……あの、少し、お時間いただけますか?」
「もちろんです。今日は、和漢紅茶がおすすめですよ」
和漢紅茶には鶏血藤やカミツレなども入っていて、リラックス効果が期待できる。
瑠璃色のポットに湯を注ぐあいだ、真希は過去の光景を思い出していた。――死亡届、相続の手続き案内、疲労で痩せていく母の背中。あのとき自分は何一つ助けられなかった。だからこそ、いま目の前の人には法律の温度を伝えたい。
湯気に陳皮とマイカイカが重なり胸に届く。ほんのり甘い芳香は相手の喉を開き、胸をほどく薬膳の仕掛けだ。岡崎の指が湯呑の湯気に触れたとき、彼の震えがわずかに緩んだ。
「実は、父が亡くなって……遺言書が、見つかって……」
岡崎の声は震えていた。
薬膳の力で体を温め、法律の力で心を支える。今日もまた、CALAKで一つの扉が開こうとしている――。
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