第8話 怪物の階段(特別委任状)

パート1:HSSPFの影

 大隊司令部の重厚な扉の向こうで俺を待っていたのは、大隊長であるトラップ警部補ではなかった。

 部屋の主座に座っていたのは、眼鏡の奥に爬虫類のような冷徹さを湛えた男――SD(保安部)から派遣された**SSオーバーシュトゥルムバンフューラー(SS中佐)**だ。

 彼は一枚の、鷲の紋章が刻印された重厚な書類をデスクに置いた。

「ハンス・シュミット。貴様の『実績』は、ルブリンの**HSSPF(親衛隊及び警察高級指導者)**の耳にも届いている。言葉を解し、機械を操り、そして国防軍の憲兵相手にも一歩も引かない度胸……。体制には、貴様のような『実務家』が必要だ」

 中佐が差し出したのは、通常の指揮系統を飛び越えた、**『特別委任状(Sondervollmacht)』**だった。

「これより貴様を、当地区における『経済的有用性に基づく選別官』に任命する。HSSPFの直命だ。大隊の指揮下には残るが、誰を活かし、誰を消すかの判断において、貴様は我々以外に報告の義務を負わない」

パート2:不可欠な要員(UK)

 その委任状の持つ意味を、俺は即座に理解した。

 それは、俺が認めた人間を**「不可欠な要員(Unabkömmlich)」――通称『UK』**として登録し、徴用や即決処刑のリストから公式に除外できる、神の如き権限だった。

「経済的価値のない『廃棄物』に、我々の貴重な燃料や弾丸を浪費するわけにはいかん。だが、価値ある『資源』は、泥の中からでも拾い上げねばならん。シュミット、貴様の仕事は、その選別だ」

 中佐の言葉は、ホロコーストの背後にある「経済的殺戮」の論理そのものだった。

「……つまり、俺が『役に立つ』と判断した者は、誰の干渉も受けずに工場に置けるということですか?」

「左様。たとえ国防軍が労働力として要求しようと、ディルレヴァンガーが玩具として欲しがろうと、HSSPFの委任状がある限り、貴様の『資源』に触れることは許されん。……もちろん、その『資源』が期待通りの成果(利益)を上げている限り、だがな」

 俺は震える手で、その血塗られたライセンスを受け取った。

 俺はこの瞬間、虐殺の被害者を救う「救世主」ではなく、人間を「資源」として査定する、体制側でも最も忌まわしい「怪物の歯車」へと変貌したのだ。

パート3:選別官の初陣

 部屋を出ると、廊下にはホフマン曹長やロイター少尉が待機していた。

 彼らは俺の胸ポケットにねじ込まれた、HSSPF直属を示す金縁の身分証を目にした瞬間、弾かれたように背筋を伸ばした。

「……シュミット『選別官』殿! 第1中隊のトラック修理、および……『資源』の査定をお願いしたく!」

 昨日まで俺を蔑んでいた男たちが、今や俺の機嫌一つで自分の部隊の戦果や物資が左右されることを理解し、媚びるような目を向けてくる。

 工場に戻ると、マイヤーが不安げに駆け寄ってきた。

「ハンス、どうなった……? その派手な身分証は何だ?」

「……マイヤー、今日からここにある全ての『命』を帳簿に付けろ。ただし、名前で呼ぶな。これからは全員『管理番号付きの熟練工』だ。……一人でも無能だと思われれば、その瞬間に広場へ送られると思え」

 俺は工場の奥で怯えている少年たちを見た。

 彼らの胸に、俺は自らの手で「UK(不可欠な要員)」のタグを付けていく。

 それは彼らを死から守る盾であると同時に、俺が「人間」であることを完全に辞めたという刻印でもあった。

 俺はデスクに座り、HSSPFの印章を強く書類に叩きつけた。

 

 俺は階段を登った。

 その一段ごとに、かつての「隣人」ハンスの死体が増えていく。

 代わりに、ポーランドの冷たい風の中で、冷徹な『選別官シュミット』の物語が、本格的に幕を開けた。

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