皮膜一枚の聖域

木工槍鉋

境界線上の音楽

 標高一千メートル。

 世界から色彩が奪われていくような夕暮れだった。

 山肌にしがみつくように造成された狭いキャンプサイトには、肺腑(はいふ)に重く沈殿するような湿気が満ちていた。見上げれば、鉛色の雲が生き物のようにうねり、稜線の向こう側から次々と湧き出してくる。


 遠くで、低い唸り声のような雷鳴が響いた。

 その直後、空気の密度がふっと変わる。肌にまとわりつくような生温かい風が止み、一瞬の静寂を挟んで、突き刺すような冷たい突風へと切り替わった。気圧が急降下している合図だ。


「来るな」

 建築家の加地(かじ)は、愛用の真鍮製オイルランタンの芯を少し下げながら、夜空を見上げて呟いた。炎が風に揺れ、彼の彫りの深い横顔に陰影を刻む。

「予報通りだ。今夜は荒れるぞ」


 私は焚き火台に残っていた最後の薪が燃え尽き、白い灰へと変わっていくのを見届けた。

「おい、本当に大丈夫なのか? この風、尋常じゃないぞ」

 私が不安げに尋ねると、加地はシェラカップに入った琥珀色のバーボンを揺らしながら、ニヤリと笑った。その笑顔には、少年のようないたずら心と、熟練した職人の冷静さが同居していた。


「だからいいんじゃないか。都市にいれば、窓ガラスの向こうの『映像』でしかない嵐を、ここでは全身で感じられる。それに、この場所を選んだのは俺たちだ。逃げるには遅すぎる」


 加地は立ち上がり、手際よく椅子とテーブルを前室(ヴェスティブール)へと押し込んだ。私たちが陣取っているのは、彼が複雑な設計コンペの仕事でストレスを溜め込むたびに連れ出す、携帯電話の電波も届かない山奥の野営地だ。

 今夜の宿は、彼が「移動する建築の傑作」と呼んで憚らない、鮮やかな黄色のドーム型テントである。


「さあ、中に入ろう。ショーの始まりだ」


 私たちは靴を脱ぎ、泥だらけの地面から、テントのインナーへと滑り込んだ。

 ダブルジッパーを閉めた瞬間、世界が遮断された。

 外では木々が悲鳴を上げ、フライシートがバタバタと激しく煽られている。しかし、薄いナイロンの床一枚隔てたこの空間には、不思議な安堵感があった。ランタンの暖色の光が、狭い空間を黄金色に染め上げている。外の轟音が、一枚の膜を隔てることで、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。



 加地はあぐらをかき、クーラーボックスから熟成されたコンテチーズを取り出した。ナイフで少しずつ削ぎ落としながら、外の轟音に負けないよう、少し声を張り上げて話し始める。


「なあ、お前。建築の始まりを知ってるか?」


「またその話か。酒が入るといつもそれだな」

 私は苦笑しながら、寝袋を膝にかけた。「洞窟だろ?」


「そう、洞窟だ。だが、建築的な意味合いで言えば、あれはただの穴じゃない。『引き算(サブトラクティブ)』の建築なんだ」


 加地は指で空中に大きな岩山を描く仕草をした。

「想像してみろ。そこにあるのは巨大な質量、圧倒的な『塊(マス)』だ。そこから、人間が住める空間だけを削り取る。ミケランジェロが石塊から不要な部分を取り除いて彫刻を掘り出したのと同じだ。洞窟とは、自然界の質量に対する『穿(うが)ち』なんだよ」


 ドォォォン、と腹に響く雷鳴が落ちた。地面が震え、テントのフレームがぐにゃりとたわむ。私は思わず天井を見上げた。頭上数十センチのところで、自然の暴力が渦巻いている。

「その洞窟なら、こんな風に揺れたりしないだろうな。頑丈さで言えば最強だ」


「ああ、洞窟は『不動』だ」

 加地は頷き、バーボンを一口含んだ。

「雨風を完全に遮断し、温度を一定に保つ。外界の脅威に対する、人類最初の要塞だ。厚い岩盤に守られ、外が嵐だろうが灼熱だろうが、内部は常に静寂に包まれている。……だがな、不動であることは、同時に『不自由』でもある」


 彼はテントの天井を指差した。黄色い生地が、風の強弱に合わせて呼吸するように膨らんだり凹んだりしている。

「対して、このテントはどうだ? これは『足し算(アディティブ)』の建築だ」


「足し算?」


「何もない空間に、ポールという線を引き、シートという面を足していく。必要な部材を組み合わせて、最小限の力学で空間を立ち上げる。質量はほぼゼロに近い。洞窟が『大地への定着』なら、テントは『地表からの浮遊』だ」


 バリバリバリ!

 突如、激しい雨粒がフライシートを叩き始めた。まるで無数の小石を投げつけられているような音が、頭上の至近距離で炸裂する。会話がかき消されるほどの音量だ。


「うるさいな」私は耳を塞ぎかけた。「これじゃ落ち着いて飲めない」


「よく聴けよ」加地は目を輝かせている。「これが『足し算』の音だ。薄い皮膜一枚で、俺たちは今、自然の猛威と接している。洞窟の厚い壁の中じゃ、この臨場感は味わえない。俺たちは今、雨の中にいながら、雨に濡れていない。この奇跡的な境界線を楽しめ」



 私はシェラカップに酒を注ぎ足した。アルコールが胃の腑に落ち、少しだけ恐怖が和らぐ。

「でも、お前が普段設計しているのは、鉄とコンクリートの巨大なビルだろ? それはどっちなんだ?」


 私の問いに、加地は少し苦い顔をした。眉間の皺が深くなる。

「現代の都市建築はな、皮肉なことに『人工的な洞窟』への回帰を目指しているんだよ」


 彼は手元のチーズをちぎりながら、自嘲気味に語る。

「空調で温度を管理し、複層ガラスで音を消し、セキュリティシステムで外敵を阻む。俺たちは、高度な技術を使って、巨大なコンクリートの塊の中に引きこもろうとしている。天気を『敵』と見なし、完全に遮断することが快適さだと信じ込んでな。そこには風もなければ、季節の匂いもない。あるのは設定された数値だけだ」


「それが悪いことか? 安全で快適じゃないか。俺のマンションだってそうだ」


「平時はな」

 加地は声を落とした。ランタンの炎が揺れ、彼の影がテントの壁に大きく映る。

「だが、東日本大震災や、近年の災害で俺たちが思い知らされたのは何だ? その『完璧な洞窟』が、ひとたびインフラという血管を断たれると、どうなるか」


 私は息を呑んだ。記憶の中にある光景が蘇る。停電し、エレベーターが止まり、空調が切れた高層ビル。それはただの巨大な、冷たい箱だった。


「エネルギーの供給が止まった瞬間、あの巨大なコンクリートの箱は、ただの寒くて暗い『石の塊』に戻ってしまう。いや、それまでの快適な生活がいきなり失われる分、洞窟よりもたちが悪い。現代建築は、自然を支配したつもりになって、実は自然から切り離されたことで脆弱になっているんだ」


 その時、外の風が一層強まった。

 ゴォォォッという地鳴りのような音が近づき、次の瞬間、テント全体が生き物のように歪んだ。ポールがきしむ音を立て、天井が私の顔の近くまで押し下げられる。


 私は本能的な恐怖を感じて、テントの端にあるポールを支えようと手を伸ばした。

「おい、潰れるぞ!」


「触るな!」加地が鋭く叫んだ。

「え?」

「手で押さえるな。構造(システム)に任せろ。人間が半端に力を加えると、かえってバランスが崩れる」



 加地の声には、現場監督のような威厳があった。私は反射的に手を引っ込める。

 テントは限界まで歪んだが、風が通り過ぎると、バネのように弾んで元のドーム型に戻った。


 加地は揺れる天井を見つめながら、静かに続けた。

「見てみろ。このテントは風に逆らっていない。受け流しているんだ」


「受け流す……」


「ああ。これが『柔構造』だ。ガチガチに固めたコンクリートは、想定外の力が加わればヒビが入り、砕ける。『剛(ごう)』の強さは、限界を超えると脆い。だが、このテントは『柔らかい』から壊れない。柳の枝と同じだ。形を変えることで、エネルギーを逃している」


 彼は自分の掌を見つめた。

「それが、防災の話に繋がるのか?」


「大いにな。これからの建築や都市に必要なのは、洞窟のような剛直な強さだけじゃない。いざという時、環境の変化にしなやかに適応できる『柔(じゅう)』の思考だ」


 加地はカップの中身を飲み干し、熱っぽく語り始めた。

「家が倒壊しても、インフラが止まっても、俺たちの手元にこのテントのような『足し算の道具』があれば、最低限の空間は確保できる。瓦礫の隙間でも、公園の片隅でも、布と棒さえあれば、雨をしのぎ、体温を守る『聖域』を作れる。この身軽さ、この適応力こそが、生物としての生存本能に近い建築の姿なんだよ」


 私は改めて、自分たちを包む薄いナイロンの壁を見つめた。

 外は暴風雨。一歩出れば、そこは低体温症のリスクさえある過酷な世界だ。しかし、この厚さわずか数十ミクロン、重さ数キログラムの布の内側には、乾いた空気があり、友との会話があり、酒の芳醇な香りがある。


「もろいな」と私は呟いた。「でも、強い」


「そう。もろくて強い」

 加地は満足そうに頷いた。

「建築哲学的に言えば、これを『ブリコラージュ(器用仕事)』的な強さと呼ぶ。あり合わせの材料で、その場しのぎに見えて、実は最も状況に即した最適解を導き出す力だ。遊牧民(ノマド)たちはそうやって何千年も生き延びてきた。俺たちが失ったのは、この『身軽な強さ』なのかもしれない」



 夜が更けるにつれ、雨脚はさらに激しくなった。

 しかし、不思議なことに、最初の恐怖は消えていた。

 テントという建築が、外の暴力を、私たちに害のない「情報」へと変換してくれていることに気づいたからだ。


 バラバラという雨音は、リズムを変えながらテントを叩く。

 ゴォォッという風の音は、ポールのしなり具合でその強弱を伝えてくる。

 それはまるで、巨大な生き物の胎内にいるような、あるいは嵐そのものと一体化したような感覚だった。


「極楽、とは言えないな」私が言うと、加地が笑った。

「ああ。ホテルの一室のような静寂はない。だが、ここには『世界』がある」


「世界?」


「壁一枚向こうで、自然が荒れ狂っている。そのエネルギーを、肌で感じながら、安全圏で酒を飲む。これは、自然と完全に切り離された現代住宅では味わえない、贅沢な『鑑賞席』なんだよ。俺たちは今、地球の鼓動を聴いている」


 加地はランタンの光を最小まで絞った。

 薄暗がりの中、雨音だけが際立つ。視覚情報が減った分、聴覚が研ぎ澄まされる。それはもはや騒音ではなく、複雑な倍音を含んだオーケストラのようだった。


「建築の本質は、壁を作ることじゃない」

 闇の中で、建築家の低い声が響く。

「『フィルター』を作ることだ。雨を防ぎつつ、雨音は通す。風の物理的な圧力は防ぎつつ、その気配や涼しさは招き入れる。洞窟が『遮断』なら、テントは『濾過(ろか)』だ。俺たちは今、巨大な自然の胃袋の中で、消化されずに守られている異物みたいなもんだな」


「言い方が悪いな」私は笑って、自分のカップに残った酒を煽った。「でも、悪くない異物だ」


 その時、ひときわ強い突風が吹き、テントが大きくひしゃげた。私の肩にインナーテントの生地が触れる。外気の冷たさが、布越しに直接伝わってきた。

 ヒヤリとするその感触。

 しかし、それは不快ではなかった。むしろ、自分が今、自然のただ中に生きているという強烈な実感をもたらした。


「なあ、加地」

「ん?」

「お前が言った『足し算の建築』、悪くないな。少なくとも、この嵐の音をBGMに飲む酒は、どんな高級バーより美味い気がする」


「だろ? 不便と不安のスパイスが効いてるからな」


 私たちは暗闇の中で、見えないグラスを軽く掲げ合った。

 カチン、と小さな金属音が鳴り、すぐに雨音にかき消された。


 頭上では相変わらず、自然の猛威が荒れ狂っている。

 だが、この頼りなくも強靭な皮膜の内側で、私たちは確かに、建築という叡智に守られていた。


 風が歌い、雨が踊る。

 原始の洞窟から遠く離れて、私たちは今、最も進化した「布の洞窟」で、嵐の夜を泳いでいた。

 夜明けには、きっと世界で一番美しい朝日が見られるだろう。そう確信できるだけの力が、この揺れる空間には満ちていた。

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皮膜一枚の聖域 木工槍鉋 @itanoma

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