章間 1 〜芽吹いた野薔薇の根〜



屋敷に戻った頃には、

マリーナはもう限界だった。


広場で張り詰めていたものが、

扉を閉めた瞬間に、音を立てて崩れ落ちた。


「……ガルム……」


呼ぶ声は、子供のそれだった。

領主でもなく、演説者でもない。


部屋に通され、

椅子に腰を下ろしたかと思うと、

そのまま前のめりに眠りに落ちる。


まるで、糸を切られた人形のように。


ガルムは無言で近づき、

外套をそっと肩に掛けた。


起こさないように、

触れる指先に、力を込めすぎない。


――よくやった。


言葉にはしなかった。

今は、眠らせることが仕事だった。



しばらくして、静かな足音が近づいた。

眠りを確認すると、二人の視線が交わる。

短い目配せと、控えめな会釈。

なかった。


 


夜が更ける。


屋敷が完全に静まり返った頃、

ガルムは一人、廊下を歩いていた。


足音は、意識的に消している。


守るべき場所から離れることに、

ためらいがなかったと言えば嘘になる。


だが――

今夜は、外で済ませねばならない用があった。


裏口を抜け、夜の街へ。


昼の歓声は、もう残っていない。

あるのは、冷えた石畳と、

灯りを落とした酒場の気配だけだ。


 


扉を押すと、鈍い音が鳴った。


中にいたのは、数人。

酔客というより、居場所を失った者たち。


カウンターの向こうで、

男がグラスを磨いていた。


視線だけが、ガルムを捉える。


「久しぶりだな――

 剣の爺さん」


その呼び方に、

ガルムの眉が、わずかに動く。


だが、何かを言う前に、

男は小さく笑った。


「……ああ、違ったな」


酒を注ぎながら、独り言のように続ける。


「今は、盾だったか」


ガルムは、口を開きかけ――

そして、何も言わなかった。


否定もしない。

肯定もしない。


それを見て、男は満足そうに鼻で笑う。


「変わっちまうもんだ。人ってのは」


 

グラスが、静かに置かれる。


「で、用件は?」


ガルムは、低く答えた。


「最近、動きがあると聞いた」


「耳が早いな」


男は肩をすくめる。


「心配するな。

 赤禿の森の連中じゃない」


その一言で、

ガルムの目の色が変わる。


「……別口か」


「そうだ。殺しも構わない連中とは違う」


男は声を落とす。


「獲るが、殺さない。

 線を越えない代わりに、数が多い」


ガルムは、短く息を吐いた。


「……パックか」


「ご名答」


男は、地図を一枚、滑らせた。


「最近、街道の外れで目撃が増えてる。

 民間人に手は出してはいねぇが、

 放っとけば、いずれ面倒になる」


「目的は」


「金。食い扶持。

 それ以上でも以下でもねぇ」


 


ガルムは、地図を見つめたまま、言った。


「……なら、話はできる」


男は、口の端を吊り上げる。


「さすがだな。

 剣を抜く前に、考える」


一拍置いて、付け加えた。


「――盾の仕事だ」


 


ガルムは立ち上がる。


酒には、手を付けなかった。


扉へ向かう背中に、

男が声を投げる。


「爺さん」


振り返らないまま、聞く。


「背負うもんが増えた顔してるぞ」


ガルムは、答えなかった。

その必要はなかった。


 


夜の風が、外套を揺らす。

屋敷の方角を、一度だけ振り返る。

眠る少女の顔が脳裏をよぎる。


――ワイローズの盾は、そこに置いてきた。


だが、守る理由は、

確かに胸の内にある。


ガルムは、踵を返し、歩き出した。


向かう先は、

パック強盗団の影が落ちる場所。


まだ、剣は抜かない。


だが、備えは――

すでに、始まっていた。

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