第2話:町へ

 それからの日々は、正月でさえ無機質で、色もなく、静かに過ぎた。豊作とは言えない一年だったので餅もなく、ただ残りの大根を煮て食べるだけの正月だった。味がない。噛んで飲み込むものもない。


 雪が降り、古巣の壁に開いた穴を土で埋め直す。


「リオねえちゃん、おなかすいた」


 下の子たちが、食べたがる。リオは自分の竹の椀を覗いて、頼りなく揺れる小松菜を箸で捕まえ、三人の口にいれてやりながら、胃がぎゅっと絞られるのを感じた。


 一年後には、また冬がやってくる。今度は畑の番をしよう。それも、徹底的にやろう。誰にも盗られず、みんな家族の分になるように。ウトはどうしているだろうか。すると胸が重くなり、ひとりでに涙が出てくる。


 最後にやっぱり干し柿を、どうにかして渡しておけばよかったと思う。荷物に入れておけばよかった。むしろの中に入れておけば、広げたときにわかるはずだった。そうしておけばよかった。


 太陽は、初頭村を十分に暖めてはくれない。朝の空気は澄み切って、呼吸するたび、肺の中が切れそうだ。わらじを履いて家を出ようとすると、弟たちが三人、にこにこしてリオに言う。


「リオねえちゃん、どこ行くの? 何かおはなしして」


「川の魚が鳥に会うはなしがいい!」


「じゃあその次は、木と岩の喧嘩のはなし」


 どれも、今までリオが作って聞かせた話だった。


「山に行ってくる」


 リオは竹の水筒を持って、自分の食事をあげても惜しくない三人を置いて、早足で歩いて行った。振り返らなかった。


 土砂崩れを起こした場所はひどく急だし、つかまるものもなく、リオは山道を通ることにした。息切れしながら、ゆっくり登っていく。山の木々が天井を作って、日光を遮っている。


 胴回りの太い巨木が周りに増えてゆく。たしか、このあたりに縄が一本張られていたはず、と目探しする。見当たらなくて、そのまま進む。


 獣道なのか、人の道なのかわからなくなる。とりあえず進む。ウトもここを通ったはずだと信じようとした。この道は祖母に繋がっていると考えると、心にかかる黒い雲もはらうことができた。


「ああ、干し柿、残しておいてあげればよかったな」


 干し柿はもうみんな食べてしまった。甘くて美味しい、あの干し柿。


 休みやすみ、しばらく行くと、日が傾いてきた。急に、夕ご飯の支度をしなくちゃいけない、と幼い三人の顔がちらついた。


 まだ、できることがあるかもしれない。諦めてはいけない。初頭村に、今日までの自分が気付かない何かが素晴らしいものが隠れている。そうだ、きっとそうだ。


 振り返って、来た道を戻ることにした。道がわからなくなっても、とりあえず下ればいいと思って、かえって急な道を選ぶ。


 不意に転んで、着物が枯れ葉と土まみれになる。


 下ってきたはずなのに、前方に上り坂が広がる。何かがおかしい。日はどんどん沈んでいって、とうとう夜になった。木々が天井を覆っているから、星も見えない。


 リオは泣きたい気持ちをこらえ、空になった水筒から伸びる紐を肩にかけ直した。足元が見えなくても、とにかくさまよってみることにした。そうしているあいだに運よく、山から下りられるかもしれない。


「おい」


 一歩ずつ、ゆっくりと手探りをしていると、どこからか男の声がした。声は続く。


「おーい」


 自分を探しにきてくれた村の人かもしれない、とリオは明るく顔を上げた。


「おおい」


 リオも返す。


「おおい」


「おーい」


 声の方へ向かう。あたりにこだましているような声だ。ふと途切れ、女のしわがれ声に変わる。


「おーい」


「おばあちゃん」


 リオは大急ぎで、目の前にぶつかった斜面を四つん這いで登っていった。この上り坂の先に、山と雲が出会う場所があり、そこにウトがいるのだと直感する。登って、登って、草をひっつかむようにして、体をとにかく持ち上げる。


 高みにつくと、頭の上の木々ももはやなくなって、月や星の明かりが降り注いでいた。目の前には深い崖があった。そして龍が一頭、鱗を白銀に光らせながら、神秘的な川のようにうねっていた。


 息が止まるほどだった。あたりは水を打ったような静けさ、風が木の葉を揺らす音さえしない。そこに白銀の龍が一頭、言いようもなく美しい龍が一頭、崖下の割れ目に潜んでいる。およそ現実とは思えない、ふわふわした夢のような光景だった。


 龍は頭をもたげて、その緑色に輝く瞳でリオを、ゆっくりと捉えた。少し開いた口には尖った歯が並んでいる。


 するとその口から二本の角が生えた小さな龍がするりと出てきて浮き上がり、リオの顔を覗き込むように静止した。小さいといっても、腿で挟めるくらいの幅で、白銀の度合いも大きな龍に勝るとも劣らない。


 その小さな龍はリオにそっと背を寄せ、やはり緑色の目でじっと見てくる。


「お前、古巣の家を知らないか? 良いものがもらえると聞いたので、訪ねてみたいと思うのだ」


 リオは傾いだ古巣の家を思って、聞き返した。


「誰がそんなことを?」


「婆さん」


 嬉しさで弾けるかわりに、リオは拍手して、歓声を上げた。


「おばあちゃんに会ったんだ!」


「あの婆さんは珍しい人間だった。自分が凍えそうなのに、胸の芯から他人のための願いをかける。『家族や村の者が、みんな幸せに暮らせますように』と……」


 小さな龍がウトを褒めるので、リオは有頂天になって小さな龍の角を掴んだ。


「そう、それがうちのおばあちゃんなの! おばあちゃんはどこ?」


「体はもうない。お前には見えない」


 角から手を離したのは、力が抜けたからだ。そうだ、たとえ祖母に会えたとしても、初頭村の古巣の家には、もう食べるものはない。だから自分もここへ来た。自分よりも大事な人たちを生かすために。道は暗く、冷たくて、もう先がない。


 小さな龍は迷惑そうにぶるぶると体を震わせて宙を一回転したあと、再びリオの前に体を寄せてきて言った。


「乗りなさい。婆さんからはたくさんの美味いものをもらったから、孫のお前に機会をやる」


「何をもらったの?」


 うつむいて、涙をぽたぽたと流すリオに気付いていないのか、小さな龍が笑って言った。


「おかし魚」


 リオは左右の手でそれぞれ角を握って、龍に抱き着くようにして身を任せた。月明かりの眼下に、初頭村の家々がぽつんぽつんと並んでいるところや、村を断ち切るようにして流れる川を見た。


 初頭村の屋根の上よりも、どんな木よりも、はるかに高い。リオは必死で龍にしがみつく。ところが龍の方は当然、余裕綽々で独り言を喋っている。


「ああ、またこうして飛ぶことができるとは! やはり美味いものは力の源だ……」


 澄んだ大気を切るようにして、山々の上空を行く。途中に村や町の明かりが灯っているのが見えた。黒一色の夜空は、地平線の向こうから顔を出した赤に追われて逃げる。朝に溶け、空は濃い青へ変身し、地平線の向こうから、輝く太陽が現れた。


 するとひときわ大きな山の麓に、建物がぎっしりと詰まった町がある。そこには細かい石でいっぱいの川が、水を惜しみなく流して横たわっていた。


 龍はリオをその外れに下ろして、こう言った。


「ああ、そうだ。路銀をやろう」


 龍がぶるぶると頭を振ると、頭頂から金色の粒がぽろりぽろりと落ちてくる。


「いいか、お前はここで美味い物を作って、村ごと豊かにしてみせろ」


 そう言うと、龍は音もなく上空にひらりと舞い上がり、元来た空に帰っていった。リオは砂金を残らず手に拾い集めると、大事に握って歩き出した。


 絶対に金を稼ぎ、村を豊かにし、飢えるしかない家族を、次の冬までに救い出してみせる。これが嘘でも、夢でも構わない。手の中の黄金は、リオの熱い体温で燃えているようだった。


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