第1話:おかし魚

 吐く息が白くのぼる朝、初頭村でも『古巣』と呼ばれるボロボロの茅ぶき屋根の上に、どういうわけだか、三毛猫が登ったらしい。年の瀬が近付くにつれ、灰色の雲がずいぶん近くなったから、見物でもしているんだろうか。


 長女で十代半ばのリオは土間にかがみこみ、弟たちが猫に話しかけているのを聞きながら、痩せた大根に石の刃を突き立てる。


「リオねえちゃん、おなかすいたよ」


「三毛猫さんがおりてこない!」


「なんとかして、なんとかして」


 彼らが助けを求めてくると、リオは外に顔を出し、努めて高い声を作った。


「あれ、猫じゃないよ」


 そしてびっくりする下の子たちに、笑顔で石の刃を見せる。


「雲の番人が、猫に化けてるんだよ。何をしに来たかっていうと……見てごらん。これを渡しに来たってわけ。これで野菜を切れば、どんなものでもヨモギ味さ」


 腹の虫をなだめるための、その場限りの言葉だった。いびつに切った大根をぽいぽいと鍋に放り込むと、立ち上る湯気が白く揺らめいた。尽きかけた塩をお湯に入れて、大根を煮ただけの食事だった。


 ぐしゃぐしゃと頭をかきむしりながら、父親が帰ってきた。乱暴にわらじを脱いで放りながら、切羽詰まった声が震えている。


「ない。ひとつも。裏のサツマイモが全部やられた」


 リオの手が止まった。犯人の見当はついていた。踏み固められた土の道をしばらく行くと、竹林に吞まれそうになりながら、一軒の傾いた家が見えてくる。その『鶴屋根』の住人だ。夫婦者が住んでいて、女の方の腹はもう大きく、あちらも飢えている。


 父親は火の気のない囲炉裏の前で、頭を抱えて唸り声をあげた。


 小さく丸まって座っていたウトが、あかぎれだらけの手を擦り合わせ、機嫌よく言った。


「正月前に、旅に出るからね」


 リオが注いだ竹の器には、大根がひときれ。食べ物が足りないんだ、と思うと、リオは自分の胸に冷たく重い石が乗っているような感じがする。だからおばあちゃんは、正月になったら旅に出なくちゃならない。


「もう、七十だから」


 ウトが諦めたように自分の年齢を口にするたび、リオは打ち消すように言う。


「いいの。おばあちゃんは、ここで暮らすんだから」


「いやいや、私は山をずっと登っていくんだ。こんなに良いことはないんだから」


 ウトの声には、不思議な明るさがあった。まるで本当に、山の向こうに何か素晴らしいものが待っているかのようだ。


 父親は何も言わない。大根は昨日よりも辛く感じた。弟たちが竹をしゃぶっているのを見て、ウトがなだめる。


「大丈夫。おばあちゃんがなんとかしてやるから、な」


 リオはたった一人で、鶴屋根の夫婦の元へ、盗んだ食糧を返してくれるように頼みに行った。ところが夫婦はもう、そこに住んでいなかった。膝から下が土に溶けたような徒労感が、『明日』を考えるのを拒む。


 古巣に戻ると、弟たちは寝ていて、ウトが土間の隅で藁を編んでいた。手を休めず、器用に藁を重ねて、むしろを直している。旅に持っていくための物だ。


「正月になる前に、旅に出るからね」


 鼻歌混じりに、ウトが言う。


「いやだってば。ここにいて。ずっとここに……」


 思わず声が高くなるリオに、ウトは人差し指を口の前に当てて、静かにするように促してから言った。


「旅の話をしよう、リオ。とびきり楽しい話がいい。山には何がある?」


 リオは、山と雲が出会う場所にある、美しい泉の話をした。それは朝焼けの空のように赤く、それでいて澄んでいて、水は重さを感じないほど軽く、寒がっている人が触れると暖かいし、暑がっている人が触れるとひんやりと感じられる。


 ウトは、うんうんとうなずいて聞いた。


「そこには何があるんだい?」


「家みたいに大きな魚がいて、口を開けると歯の代わりに干し柿がぶらさがってい

て、体の中には甘いサツマイモがぎっしり詰まってる」


 ウトは吹き出した。あんまり笑いすぎて、下の子たちがみんな起きてしまった。


 それから魚の名前を『干し柿歯さかな』にするか、『芋っ腹さかな』にするかで家族の意見が対立する危機を経て、帰ってきた父親によって、命名は『おかし魚』に決まった。


 『おかしな魚』ということなのだが、『お菓子』にも似ているので、せっかくなら口を開ける度に中に詰まっているものが変わった方がいいという話になり、初頭村の村人たちが、それぞれが欲しいものを得るために知恵を絞る話が出来上がった。


 祖母は、こらえられない笑いのためにじんだ涙を拭って、リオの頭を撫でた。


「誰も思いつかないようなことが、この頭に詰まってるんだねえ」


 リオの胸がじわりと暖かくなる。おばあちゃんが、たくさん笑ってくれた。下の子たちも、父ちゃんも、みんな笑ってくれた。


 その日、朝から空は抜けるように晴れていて、雲ひとつなかった。冬には珍しい、暖かな日差しが初頭村を照らしている。風もなく、雪も降っていない。まるで、ウトの門出を祝福するかのような穏やかな天気だった。


 ウトは小さなむしろの包みを背負い、わらじの紐をきつく結んだ。父親は黙って立っている。弟たちは『旅に出る』ことの意味がまだわからず、お土産をねだっている。


 リオは隠しておいた干し柿を、ウトに差し出した。


「これ、持っていって」


 ところがウトは、寂しそうに笑って言った。


「いいんだよ、リオ」


「よくないよ。これはおばあちゃんにあげる」


 押し付けようとしても、頑として受け取らない。泣き出したリオに、祖母は優しく言い聞かせる。


「おばあちゃんはね、山に登っていくんだ。山と雲が出会う場所には泉があってね、そこにいる魚から、干し柿をたくさんもらうんだよ」


 それを聞いて、リオは叫び出した。


「あんなのただの嘘だよ、本当じゃないんだよ! 何の役にも立たないこと、信じないでよ、どうして……」


 祖母の手が、リオの頭を撫でる。涙に震えた声が聞こえた。


「嘘なんかじゃない。本当にあるんだよ」


 それから手を振って、小さな背中が去っていく。


 リオは膝をついて、ぼろぼろに泣きながら、ウトの背中に向かって叫んだ。


「おばあちゃん、嘘なんて言って、ごめん。嘘なんかじゃないんだ、本当にあるんだよ。あの泉は、絶対に、山と雲が出会う場所にある。だから探してね、絶対見つけてね。泉を見つけて……」


 しゃくりあげて、やっと吸った息で言った。


「お願いだから、幸せに暮らして」


 ウトは角を曲がって、見えなくなった。


 家より大きく、体の中には食糧が詰まっていて、口を開けるたびに中身が変わる魚。そして、その魚が住む赤く澄んだ泉。リオは頭の中で、強く、強くその像を思い描く。そしてウトが魚に出会い、かつての日のように笑う姿を、脳裏に鮮明に刻むことに懸命になった。


 空は晴れていた。それが救いだった。

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